木下闇


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 人生に永遠の五月はない。

 さて、では自分の五月はいつだっただろうか……とダーヴィトの歩みは心持ち遅くなった。
 もともとそれほど早く歩く性質ではないし、今は気侭な一人の散歩道。もとより遅い歩みが遅くなっても咎める人などいない。ダーヴィトは木立を渡る風よりも緩やかに足を進めていった。風は、微かに初夏の色を帯びていた。

『自分にとっての五月』という言葉でダーヴィトの瞼に鮮やかに蘇ったのは、聖セバスティアン音楽学校の景色だった。――学生時代か、陳腐だな――自嘲気味の溜息は、しかし思わず浮かべてしまう優しい微笑みで打ち消されてしまった。
 古びた校舎、朽ちた窓、整えられた柔らかな芝生と、雑木林の奥に密かに輝く湖水。ピアノと弦楽器が紡ぎ出す天上の音楽、そして天使の歌声。
 確かに自らの心の中で永遠に光り続ける五月は、あの頃なのだ。
 ダーヴィトは、通り過ぎさまに肩を撫でた林檎の枝をそっと払った。枝垂れた枝の先には、繊細な産毛に包まれた若葉が伸びていた。触れるとわずかに弾力を持ってたおやかに撓る。傍らの枝から遅れて咲いた三輪の花が、バラのような芳香を漂わせていた。瑞々しい緑の中、透き通るほど白い花はくっきりと浮かびあがって目の中に飛び込んできた。
 新梢の柔らかな感触は、胸の奥にしまってある痛みを呼び起こす。

 人生の五月の前には、花咲き乱れる四月があった。
 数週間前の林檎の花のように、仄かに紅を帯びた白い花弁が一斉に咲き誇った季節があった。

 愛らしかった従妹を思い出す時には、動かなくなった指に疼くような感覚が走る。神経の通っていない指に、感覚が蘇ることなどないはずなのだけれど。
 時間はあらゆる痛みを癒す薬と言うが、ダーヴィトとしてはそれほどの効き目は無いように思える。それかもしくは、自分だけはその恩恵に与っていないのか。
 ふと嗤いたくなった。
 ――そういえば、自分は薬があまり効かない体質だった――
 指の筋を切る怪我をした時も、痛み止めの薬が効きにくくベッドの上でうめいていた。
 徒に鈴なりに生った幼い実を弾いてみると、ゆらり枝が揺れ、またダーヴィトの肩口に戻ってきた。わずかな枝の動きが、足元の木漏れ陽の模様を変えた。ちらちらと、ちらちらと、光の欠片が現れては消える。それは白い花が散って逝く様を見るようだった。
 幸福な四月を失ってしまった時、自分のこれからはただ無明の冬が続くばかりだと思っていた。絶望の中に閉じ篭り、いっそめぐり来る季節、過ぎてゆく時間からも逃れたいと思って、馬車ごと崖から落ちてみたりもした。運良く……再び経り行く時間の流れの中に舞い戻ることにはなったけれど。変わったことといえば、二度とピアノを弾けなくなったことぐらいだった。
 花盛りの春は無情に途絶えさせられる。凍えるほどの無慈悲な冬からも逃れることは出来ない。天は残虐に、気紛れに、おのおのの人生の長さを紡ぎ、切断する。そのように理不尽に区切られた一生の中で、それでも人は音楽を創造する。わずか一時。演奏時間の間だけに存在する形なき芸術。バイオリンを弾く時はひたすら真摯に、その音楽とだけ向き合うようになった。空に消えゆく音色は、いずれ消えゆく生命のようなもの。その儚い一瞬が美しいもので満たされるのならば、それだけで、幸福なのではないだろうか。
 もちろん、麗かな四月の幸せとは違うものだけれども……。

 ダーヴィトは上を見上げて再び歩き出した。緑の天井が空を覆い、森の中は今日の天気にしてみれば涼しかった。緑と緑の隙間から、白い光が差し込んでいる。葉と枝と、光と影の織り成す複雑な模様の天井を眺めながら、ダーヴィトは歩を進める。五月の日光は優しいけれども鮮烈に白く眩しかった。木下闇に包まれた自分の心を刺すほどに、眩しい輝きだった。
 バイオリンと共に再び時間は流れ出したけれど、四月の乙女を失った世界は前ほど明るいものではなくなっていた。緑陰の中を歩くように、自分と外界の温度は少し違っていた。
 そこに金色の光が差し込んできた。
 ――それから、五月が始まった――
 輝く金の髪に、白磁の肌、天使のソプラノ。彼女は、五月の光そのものだった。
 美しくて。眩しくて。彼女の輝きは木漏れ日にとてもよく似て、心のあちこちに開いた穴に差し込んできた。森の外の明るさや暖かさを教えるように、優しく光は降り注がれた。どうしてその光に惹かれずにいられるだろうか?
 彼女の想いが自分に向いていないことは知っていた。そのことは少し残念だったけれど、耐えられない痛みではなかった。自分の感情よりも、彼女の心の方が大切だったからだ。大切で、大切で、大切で、脆く傷つきやすい彼女を守れるのなら、自分の想いなど二番目でも三番目でも良かった。従妹への恋情とはまた違った心で彼女を愛しんでいた。
 五月の彼女は、心の穴へ光を齎した。けれどそれは穴が塞がったということではない。
 失ったものを再び手に入れることは出来ない。
 自分が自分であることと同じように、彼女は彼女の代わりにはなれない。

   代わりを求めるつもりなど、ない。

 ああ、そもそも代わりなどあるはずがないのだ。彼女がいなくなって開いてしまった隙間は、彼女でしか埋められない。彼女の降り注いでくれた光は、彼女の輝きからでしか齎されない。
 ――他の何かで代わるのなら、それは忘れるのと同じじゃないか――
 朗らかな黒髪の少女との恋を偲びながら、金髪の天使へ惜しみない愛を注ぐ。それは決して不誠実なことではないとダーヴィトは信じていた。穿たれた穴も、遠のいてしまった光も、そこに確かに存在したのだ。その存在を“失ってしまって悲しいということ”を“忘れてしまうほど悲しい”ことはないのではないだろうか。だからこそ、そうやって喪失を抱えたまま生きる自分も変えることなど出来ない。光の射さない心の奈落すらも、現在の自分を構成する因子なのだから。
 また指に痺れが走る。幻の疼痛がいつまでも消えない。
 いつまでも、いつまでも……それは仕方がないことで。
 ――そう思っていた、はずなんだがな――
 いつまでも、いつまでも……でも、それはいつまで続くのだろう?

 ふいに辺りが明るくなった。
 一瞬、森から出たのかと思い見回したけれど、木々はまだ彼方まで続いている。
 そこは森の中に唐突に現れた、小さな広場のようだった。おそらく昔ここにあった木が一本だけなくなってしまったのだろう。探せば朽ちた切り株が見つかるかもしれない。緑の屋根にぽっかりと開いた天窓から、遠く澄んだ五月の空が見通せた。
 ダーヴィトは瞼を閉じた。思い切り首を反らせ深呼吸をすると、綻びはじめた白詰草の甘い香りが胸の奥まで沁みこんだ。静かに目をあける。視線の先には、わだかまりを洗い流すような青。
 もう一度息を吸うと、天の高い所から雲雀の声が降りてきた。木の葉擦れとの和音がさやかに聞こえた。
 それで、区切りはついた。
 ――いつまでも、ずっと続いてもいいじゃないか――
 指の悼みも心の病みも、それはかけがえのない季節の名残だ。胸の森に埋められない穴が開いていたとしても、その空洞からはこんな青空が見えるかもしれない。

   人生に、永遠の五月はない。されど五月はまためぐり来る。
 木下闇を抜け、新しい季節に一歩踏み出す。
 あの強く優しく意地っ張りな彼女と過ごす季節なら、五月ではなく、煌めくような朱夏だろうか。



 ダーヴィトの足は森の出口へと、そしてアーレンスマイヤ家へと向かっていった。






ちょっとぐるぐる悩むダーヴィト。
「こしたやみ」という言葉にひかれて五月に書いていました。
……今頃ようやくUPです。歳時記外しすぎ。
ところで、下手な字書きのくせに、自分で書いた細かい部分が気になります。
リンゴの枝が枝垂れるのはおそらくウチ以南の現象で、ドイツではありえん。とか
そんなん言ってたら、Princess Familiaなんかどうしようもない。
18世紀フランスと思しきところにハマナスは自生しません。



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