桃の香り、光の春



――4――

 女は甘い香りを漂わせ“ふわり”と笑った。

『さっきはしっかりシカトしてくれちゃってさ。超ブルー入ってたのよぉ。戸川君冷たぁーい、とか思っててさ』
 更に彼女は“くるり”と陽気な声に変わる。
『でもいまはちゃんとアタシを見詰めててくれるのよね、嬉・し・い♪』
 そう言って“ひらり”と僕の横顔を掠める。

 彼女が全身で喜んでいることだけは分かる。何しろ“ふわり”と天井辺りまで舞い上がって笑い、“くるり”と浮かんだまま回転して、“ひらり”と僕の頬を手の平ではなく全身で掠めさり、音も立てずに着地したのだから。
 僕は凍りついたまま、目の前で軽やかに空中を踊る半透明の女を凝視し続けた。彼女の動きから風が起きることもなく、僕の頬は触れられた感覚すらない。
『ちょっと! 聞いてんの? 戸川君。と・が・わ・クン!』
「ゆ……」
『ゆぅ?』
「……ゆう、れい」
 僕はようやくかすれた声を絞り出した。女は鼻をふん、とつまらなさそうに鳴らし、腰に手を当ててふんぞり返った。
『なによ。なんか文句あんの?』
 文句……色々言いたいことはあるのだ。何でよりによって、幽霊なんか見えるんだ、とか、いい加減現実世界に戻してくれ、とか、勝手に人の部屋で飛ぶな、とか色々。あるのだが、何を言っていいかわからない。
『それともオネーサンのビボーに目が眩んで言葉も出ないのかしらぁ?』
 髪をかきあげてウィンクをひとつ。……なんなんだこの女は。

「ぁ……なた、誰ですか。いったい、なんのために……」
 非現実に対処するためには、自分を現実に引き戻すことだ。僕はとりあえず基本的なことを口にしてみた。透き通った女の反応は目覚しいものだった。眉間にしわを寄せ、漢方薬を無理矢理飲んだように唇を曲げた。
『聞こえてないのぉ? 会話が噛み合ってないじゃない』
「き、聞こえてます。聞こえてます」
 慌てて訂正する。きつく上がった目尻に身の危険を感じたのだ。狂風が起こったり、物がガタガタ揺れたり……ポルターガイストとかいう現象を起こされるのは勘弁だ。しかしどうやら机も本棚も物音ひとつ立てない。ほっと気を緩めかけると、女は更に偉そうに僕を斜めに見下ろして
『アタシの美貌に対する賛辞がないじゃないの』
 とのたまった。
「……賛辞って、美貌……――ふざけんな!」
 僕の恐怖回線が焼き切れた。
「急に現れて一体なんなんだよお前は! ゆ、幽霊なんているわけないだろ! 昼間、壁からドロドロ出てくる夢を見せたのもお前の仕業か? 忽然と出現したり壁通り抜けたり……勝手に人の部屋でふわふわ飛ぶな!非常識!! 大体僕の名前なんてなんで知ってるんだよ、僕はお前みたいなのと一面識もない!」
 渇ききった喉から一息でぶつけた。そうだ、お化けなんて嘘だし、お化けなんてないんだ。覚醒してるつもりでも、きっと僕は寝惚けて見間違えているだけなんだ!
 きょとんとしていた女は、徐々に不穏な空気を醸し出した。
『はぁ? …………急にって何よ。アンタが無視してただけでしょ! なんか懐かしい音がするから、どうせ見えるはずないと思って部屋に入ったら勝手にガタガタ震えてすっ転んだのはそっちでしょう!? そりゃアレは突然だったかもしんないけど、そのあとトンカツむしゃむしゃ食ってたアンタの目の前にずーっと座ってたのよ! 壁から出てきたのは悪かったかな〜なんて、こっちはこっちで気ィ使ってちゃんと夕方には玄関から入ってあげたんじゃない。表札見りゃ苗字なんてわかるわよ! ぴったりくっついていてあげたってーのに、それなのにこの部屋に来るまで気付きもしなかったじゃないのよ! そっちこそふざけんじゃないわよ、今更見えた程度で驚かないでよ!』
 まくしたてる勢いに押された。いやそればかりか心臓が再び縮みあがった。夕食時もずっと目の前にいただってぇ!?
『いやねぇ。パクパク金魚みたい。はっきりしない男ってサイテー』
 サイテーでも良い。幽霊に好かれたくなんてない。いや、それよりも、では僕は、この女とずっと向かい合っていたのか。幽霊と、向かい合って、食事……。

 想像力が切れた回線を繋げたらしい。僕はまた呼吸が止まりそうな恐怖にくるまれた。向かいに座って僕を睨みつづけるこの女を、肩にべったりとこの女を背負いながら階段を上る自分を想像してしまったのだ。
「っ……あ……」
 声がまた出なくなった。指先が冷たくなって、体が動かない。
『……もう、そんなに怖がんないでよ』
 女の眉が顰められる。肩を竦めてやや俯いてしまった女は、長い髪で顔の半分を覆われ……格別に恐ろしい。
「な、なんで……何なんだよ、一体」
 僕の口から零れたのは、随分と情けなく震えた声だった。
『泣かないでよぉ……。アタシの素性さえ分かればいいの? 全く、アタシの営業って高かったんだぞ』
 パッと顔を上げ、肩に落ちた髪をこれ見よがしに背中に流して嫣然と、艶やかに幽霊は微笑んだ。

『こんばんはぁ〜、桃香でぇす。今お名刺持ってないから、渡せなくてごめんなさいね。でもでも、今晩は楽しんでって下さいね!』

……何を、楽しめっていうんだよ。




自己紹介。うん、自己紹介したよね。これで。
「戸川光希」と「桃香」。あああああ、
話が一向前に進まないのは困ったもんだ。

さりげなく伏線回収。
さて、なぜ彼は夕食時に桃香が見えなかったのでしょーか?

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