桃の香り、光の春



――3――

「うっ……わあぁぁ!!」

 机の上からペン立てがとんでもない音を立てて落ちた。
 飛び退いた僕は、机の縁に骨盤をぶつけ、その痛みにこれが現実であることを知った。女がいるのだ。見ず知らずの女が僕の目の前に。体の向こうにドアが透けて見える女が!
『なによ、やっぱり見えてんじゃん』
「!」
 声が聞こえた。おそらく、鼓膜を振るわせるという工程を経ないで、頭の中に直接に。よりによって、よりによって声まで感じるなんて! これはまだ夢の続きなのか? 僕は机の角に貼り付いたまま、動くことが出来ない。これが金縛りというものなのだろうか。いや、頭が起きて体が寝ている状態が金縛り現象なんだ。これは夢だ。夢なんだ。さっさと起きろ、僕の体!
『ねねね、アンタ本当にアタシのことがはっきり見えてんの? うっそ、マジでぇ!』
 ……やはり夢なのかもしれない。女は全くおどろおどろしく無い口調で僕に尋ねてきた。それでも僕は冷や汗を流し、声を発することもできずにただ首を縦に動かした。
『やったぁー!! 死んでから初めてじゃない!? ちゃんとアタシが見える人に会えるなんてっ!』
 女は埃ひとつ舞い立たせずにふわんと天井位まで浮かび上がった。浮かび、上がった。しかもこの女はなんて言った?
「死んでから初めて」!
 決定的だ。こいつが夢でないなら、僕の目の前にいるこれは……幽霊だ。

「……あの。光希さん?」
 廊下から遠慮がちな、生身の人間の声がした。あの人だ。開きっぱなしのドアからじわじわと染み出すように顔を覗かせ、室内をうかがう。まずい! 彼女が幽霊なんかを見てしまったら……
「まぁ、顔色が悪いわよ!……目眩でも起こしたの」
 床に散乱したペンを見つけて、珍しく彼女は僕の部屋に足を踏み入れた。いや、驚いたのはそこではなく―― 何事もないように ―― 女の体を通りすぎて僕に近付いてきたのだ!
「ちょっと、真っ青よ!」
「え、あ……」
 何てことだ。この幽霊は彼女には見えていないんだ。
『ふうん、この人には見えてないみたいね』
「わかってる!」
 思わず幽霊に答えてしまった。
「って……あ、いや、そうじゃなくて……」
 僕に触れようと伸ばしていた手が中空で止まってしまっている。彼女に対して言ったわけではないが……どうしようもなく自分はこの状況に混乱している。
「ごめんなさい……その、大丈夫?」
「あ……うん。ちょっと、ペン立て落としちゃって……」
 幽霊がいる! と叫んでみてもどうせこの人には見えていないのだ。余計に厄介なことになる。目眩なんて良い口実じゃないか。いかにも体調が悪そうに振舞えば、一人にならずに済むだろう。ところが僕の体は1oも動いてはくれなかった。
「そう、ごめんなさいね。えっと……お邪魔しちゃって、悪かったわね」
 躊躇いがちに彼女は固まったままの僕から離れ、そそくさと部屋から出ていった。
 失敗した! 彼女は僕が嫌悪から体を固くしていると思ったに違いない。確かにいつもの僕なら、2階に上がってこられることすら嫌っているのだが。だけど頼む! 例えあなたでもいないよりはマシだった! この部屋に幽霊と……
『二人っきりね♪ 可愛いボウヤ』
 僕の血の気はまたしても音を立てて引いていった。幽霊がこちらを向いて満面の笑みを浮かべている。真っ赤な唇――透けているがとりあえず真紅だ――が吊り上っていく。

『ようやく会えた“アタシが見える人”なんだからぁ。仲良くしましょーね!』

 ……気絶という幸せは、僕には降ってこなかった。




ちょっとだけ、脱ホラー。幽霊がようやく喋りました。
とりあえず男の子の名前も出てきました。……名前だけ。
次回、幽霊自己紹介編の予定!(予定は未定であって決定ではない)



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