桃の香り、光の春



――2――

 プールの底から浮上する。

 ぽっかりと水面から顔を出すと灰色の天井が見えた。ああ、目が醒めたのだ。
 さっきまで真っ白だった天井がこれだけくすんだ色になっているということは、もう随分と夕方になってしまっているようだ。
 天井を見上げる首が痛い。寝違いでもおこしたか? まぁそうかもしれないな、ベッドに寄りかかってうたた寝なんかしたからだ。なんでよりによってこんな変な姿勢で寝入ってしまったんだろう。階下で物音がする。あの人が帰ってきてるんだ。どれくらい寝ていたんだろう? 今、何時だ?
 時計を見るために体を起こすと、尾てい骨に鈍い痛みが走った。

 その痛みに記憶の波が襲いかかった。

 そうだ! アレはどうした!?
 心臓が縮んだ。体中の汗腺という汗腺から冷たい汗が噴き出した。
 壁からおかしなモノが出てきて、僕はソレで気を失っていたのだ!
 痛む首を少しづつ動かして部屋の様子を探る。薄暗い自分の部屋が異質な空間に思えた。ピアノの横の壁はいつもと同じくのっぺらぼうで、アレの残像すら感じられない。すでに濃く影を落としている本棚の隅や部屋の角は直視できなかったが、特に異変は無い。多分。
 腰に手を当てながらじわじわと立ち上がると、机の上の時計が見えた。不気味な蛍光塗料の文字は6:58。あと2分で夕食の時間だ。早く、下におりよう。おりなければ。参考書が開きっぱなしの机に手を伸ばし、慌てて眼鏡をかけた。こめかみの汗を指先で拭うと、不快な冷たさに余計焦りがつのる。
 ……いや、ちょっと落ち着け自分。なんでこんなに急いでここを出ようとするんだ? いつもと同じ自分の部屋じゃないか。
 僕は唇の隙間から細く息を吐いた。
 馬鹿馬鹿しい、何を慌てているんだ。一体ここに何があったというのだ。壁から……人間、みたいなのが出てくるなんてありえない。そう、起こり得ないことを見た気になっているんだ。夢だ。夢に違いない。きっと椅子の上で仰向いた時にそのまま眠ってしまったんだ。で、椅子から転げ落ちて腰を打った。ベッドに寄りかかっていたのもおそらくそのせいだ。
 一つ、大きく呼吸をする。
 ホラ見ろ、甘い匂いなんてしないじゃないか。
 跳ね上がっていた心拍数が落ちていくのがわかる。僕はいつもと同じようにノブをひねり、いつもと変わらない自分の部屋を後にした。
 ただし、僕は目が醒めてから一度も後ろを振り返ることが出来なかった。

 テーブルの上には、もうとっくに食事が並んでいた。カウンター越しに、洗い物をするあの人の背中が見えて妙に安堵する。この人を見つけて安心感が得られるなんて、情けない。高校生にもなって怖い夢ごときに引き摺られてどうする。僕の足音に気が付いたらしく、蛇口の水を止めて彼女は振り返った。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
 微笑が貼り付いた顔を一瞥して、小さく言葉を返すと、僕はそのままテーブルについた。彼女も手を拭きながら椅子に座る。キッチンに一番近い所に座る彼女は、僕と丁度直角の場所にいることになる。僕の正面は父さんの場所だが、ここ暫く向かいに人がいる食事をしたことは無い。どうせ相変わらず忙しいのだろう。
 食卓から甘い香りがした。
 夢の中で嗅いだのと同じ匂いで、一瞬体を竦ませた。
 匂いの元は、なんのことはない。デザートとして切ってあった白桃だ。ここでも、また情けないことに僕はほっと体の力を抜いた。怪訝な視線を左手から感じるが、それを無視して僕はトンカツを一切れ口に放りこんだ。ワンテンポ間を置いて、いただきます、という呟きが彼女から零れた。

 機械的に箸を進め、30分もしないうちに食事を終えた頃には、僕の悪夢も随分と薄らいでいた。いつもならすぐに席を立って部屋へ戻る所だが、箸を置いて三呼吸ほど躊躇した。デザートが残っているのだが、甘い匂いを放つ桃に手が伸びない。部屋へ戻るのも気が向かないが、桃を食べるのも今ひとつだ。
 怖い夢にまだ振り回されてるのか?
 子供じみた逡巡を押さえこんで、僕は二階へ戻ることを選択した。
「あら、桃はいいの?」
 立ち上がった僕に向かってあの人が尋ねてきた。食べない訳を答える必要はないが、さすがに理由が理由だけに気恥ずかしい。いつもより二割増くらい素っ気無く
「いらない」
 と答えて、ダイニングから出ていった。

 明かりを即座につけて、部屋の中心に立ち四隅を見回す。大丈夫、何もない。息をつくと、袖口に汁でもついていたのか、桃の匂いを感じて少しドキッとする。……愚かしい。何が“大丈夫”で、“何もない”だ。
 眼鏡を外してドアを閉めようと振り向いた。

「うっ……わあぁぁ!!」



そこには。半透明の髪の長い女が。立っていた。




ごめんなさいごめんなさいごめんなさーい!!
第二話でもまだ主人公の名前を出せませんでしたぁぁぁ!
おまけにまだホラーっぽいし。純愛路線が遠いよぉ!!

次こそは必ず!とりあえず自己紹介から!!(ダメダメじゃん)



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