太陽

 リリーの習慣は薔薇の花束を買うことだ。

 深紅の薔薇の花束を買って、ある男性に届けることがリリーの唯一の楽しみである。
 男性はその花束の贈り主がリリーであることを知らない。リリーも彼が知ることを望んではいない。いつも見つからないように、自分で、もしくは友人に頼んだりして花束を彼の家の前に捧げるのだ。

 花束を贈りはじめたのは、その男性がまだ学生の頃だった。
 音楽の勉強の為に故郷を離れた彼が、将来有望な新人として新聞に取り上げられたのを読み、リリーは初めて彼に花束を贈った。リリーは花の種類も名前も数えるほどしか知らなかったので、花屋の店先で自分が一番良く知っている花を選んだ。それが深紅の薔薇だった。
 薔薇は、彼の故郷――すなわちリリーの故郷でもある――の街いたるところに咲いていた花だったからだ。

 最初は彼へのささやかな応援のつもりだった花束が、リリー自身の支えになったのはいつの頃からだったろう。
 男性がピアニストとしてデビューし、喝采をもって世に受け入れられたことはリリーの耳にも届いた。彼は着実に成功の階段を上っていき、リリーの贈る小さな花束などは数に入らないほど多くの豪華な花束が彼のもとに届けられるようになった。それでもリリーは薔薇を買うことをやめなかった。
 リリーが有名なピアニストである彼に花束を贈り続けていることを聞いて嘲笑する人もいた。折角の稼ぎを花束なんかに費やすなんて馬鹿らしい、あの名ピアニストがアンタなんかに目を止めるとでも思っているのか、と。
 リリーはその言葉に、いつも曖昧で悲しげな笑いを浮かべる。
 娼館の女将にかなりの上前をはねられ、リリーの手に残るお金は少ない。時々、花なんかにお金を使わないほうが良いのではないかと考えないこともない。どうせ彼はもう別の世界の人なのだ。彼の住む世界には、リリーとは大違いのそれこそ薔薇のような女性が大勢いることだろう。
 リリーの住む世界にあるのは、安っぽい白粉の匂いと、肌触りの悪い生地で作った衿ぐりだけは大きく開いたドレス。酔客の下卑た冗談に、愛情のない快感。ここではクラッシク曲もピアノの音も聞こえない。薄暗く、狭苦しい世界からリリーはずっと抜け出せないでいる。
 しかし、彼に贈る花束を買う瞬間だけリリーの周りは明るくなり、彼がその花束を手に取る姿を想像する時だけ、リリーは新鮮な空気を吸うことが出来るのだ。


 日光があるから、花は生きていける。
 お屋敷の庭で大事に育てられている薔薇も、誰も名前すら知らない道端の雑草も。
 もちろん太陽は何かの為に、誰かの為に輝いているわけではなく、ただ自ら光を放っているだけだ。それで地上の草花が生命を保っていることを知らない。
 太陽からは雑草は見えないないが、雑草は太陽を知っている。
 その光で自分が生きていけることを知っている。



 ただそれだけでいい、とリリーは思う。
 今日も深紅の薔薇を花屋で注文しながら。



 


橘いずみの「太陽」は名曲。

ロベルタにとって、イザークは存在しているだけでも
幸せを感じられる人だったのではないかと思います。
恋愛とか、結婚とかはその付録みたいなもので。

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