幸せな夢




 耳を微かに引っ掻く音でベルナールは目を覚ました。

 蝋燭は殆ど溶けかかっていて、弱々しい光をテーブルの上に撒き散らしているだけだった。記憶が途切れた頃は、まだ部屋の中も幾分明るかったように覚えている。
 微かにざらついた音はまだ続いている。それが雨粒の鎧戸を叩く音だと気が付いたのは、ゆっくりと体を起こしてからだった。ふいに感じる、小さな目眩。
「……ああ、随分飲んでしまったな」
 雨のせいか肌寒い。起き上がった肩から毛布が滑り落ちるのを、ベルナールは右手で押さえた。優しい妻は、酔いつぶれた夫をベットに引き摺っていくのを断念したらしい。翌朝頬を膨らませて朝食を用意するだろうロザリーを思い描き、彼は苦笑した。零れる息にまだ蒸留酒の香りが残っている。
 わずかな蝋燭の灯で、テーブルの斜向かいに黒いシルエットが浮かび上がって見えた。
「なんだ。アラン、起きていたのか?」
 シルエットは考えるまでもない。昨晩共に飲み続けていた男だ。ベルナールは手燭を――もうあまり役には立たないが――アランの方へ近付けようとした。
「……いいや。さっき、目が……覚めたばっかりさ」
 囁くような声だった。
 手燭を近付ける手が止まった。
「アラン?」
 わずかな灯火に映る影は、アランそのものよりも一回り小さく見えた。彼はテーブルに両肘をつき、組み合わせた手に頭を凭れさせていた。そう、それは“うなだれている”と云われる姿勢だ。
 炎が揺らめいた。
 ベルナールは、揺らぐ影の中に異なる揺れを見てしまった。アランの肩が微かに震えているのを。洟をすする音が、沈黙の支配する暗がりに響いた。――泣いている。

「……バスティーユの、夢か?」

 呟いてしまってから、ベルナールは口を押さえた。聞いてはいけないのだ……こういうことは。

 もう随分と以前の事だ。
 ベルナールが、アランの『バスティーユの夢』のことを知ったのは、本当に偶然の出来事だった。アランがシャトレ家に泊まっていくことは度々あることだった。今夜のように、二人で飲み明かすこともあったし、ロザリーの温かい手料理をご馳走した後、小さな客間にアランを泊めることもあった。
 アランが客間に泊まったある晩。深夜に喉の渇いたベルナールが寝室を抜け出し、台所へ向かう途中、客間からうめき声が聞こえてきた。何事かと慌ててドアをあけると、ベッドに上体を起こしたアランが荒い息を吐いていた。夜目にも真っ青に見える顔色の悪さに、ベルナールは「どうしたんだ!」と勢い込んで尋ねた。返ってきた言葉は弱く、途切れ途切れだった。
「……夢だ。そう、わかっているんだ。また、あの夢だ。……あの方が、あの方を……また守れなかった」
 目の前で鮮血に染まっていく、自らの腕の中で冷たくなっていく、彼女を。
「たまんねぇぜ……この夢を見るたび、俺は、なんとかしようとするのによ……何も出来ない。……出来なかった」
 半分ほど、未だ夢の世界に囚われているアランに、ベルナールはなんと声をかけて良いか分からなくなってしまった。アランは、あの七月十四日をまだ悩み続けているのだ。
 翌朝、思案の面でアランを見てしまったのだろう。彼はおどけて肩を竦めてみせ――気にすんな、毎晩うなされてるわけじゃねぇよ。ガキじゃあるまいし――と、ベルナールが昨夜の事を問う前に笑って答えられた。それから、心の中では案じながらも、特にその夢を話題にする事はなかった。

 俺は馬鹿だ。いくら友人とはいえ、触れられたくない部分だってある。迂闊に言葉を零してしまうべきではなかった。
 ベルナールは口を押さえたままの姿勢で固まってしまった。唯一動いている所といえば、眉間の皺が徐々に深く寄せられていくだけだ。テーブルの向こうのシルエットもうなだれたままだ。静寂の闇が室内を一層暗く重くする。
 どれくらい、二人とも凍ったままだったろうか。
「心配すんな。バスティーユの夢じゃねぇ」
 とアランが呟いた。殆ど、聞き取れないほどの声で。

「お前が潰れて、ちょっとしたら俺も眠くなってよ。……うたた寝しちまった」
「ああ」
「夢を……見た」
「……ああ」
 アランは、組んだ両手に頭を凭れさせたまま、小さな声で語り始めた。

 ――心配すんな。第一あの夢はうなされるだけで、泣きゃしねぇ。……実を言うと……近頃、あの夢はあまり見ない。もう随分とバスティーユも昔になっちまったもんな。……さっき見たのは、いい夢だ。いい夢だった。……夢ン中で、俺は衛兵隊にいた。抜けるような青空ってのは、ああいうのだろうな。革命の影すら見えない、イイ天気で、絶好の面会日だ。そう、面会日の夢だった。
 ……ディアンヌが来てくれた。わざわざおふくろも連れてきてよ。「兄さん、元気だった?」なんて、あいも変わらず見りゃ判ること聞きやがる。春風みてぇに笑ってよ、その笑顔で外野が騒ぐ騒ぐ、うるせぇのなんの……。ジャンとか、フランソワとか、でれ〜っとしやがって。ああ、そうだ……あいつ等も、夢の中では相変わらずだったなぁ。子供並にぎゃーぎゃー騒いで……。そんな俺達を眺めて、隊長……へっ、久しぶりにこう呼んだな……隊長が微笑んでるんだ。少しシニカルに、唇の端を上げて……変わらない笑顔で。靡いた髪をキラキラさせてさ。
 それから……相変わらず隊長の後ろにはアンドレが寄り添っていて。あの静かな瞳で、隊長を見つめてた――

「イイ夢だろ?」
「ああ」
 アランは長い溜息をついた。溜息の長さだけ、穏やかな夢を反芻するように……。
「バスティーユの夢以外で、あの方と会えたのなんて初めてだ」
「そう、か」
 良い夢。しかし夢の内容を聞いても、ベルナールの寄せられた眉間の皺は解かれなかった。それどころか、余計に深く刻まれる。アランもうなだれたまま、決して顔を上げようとはしない。
 手燭の灯りが揺れ、さらに炎は弱くなった。

「幸せな夢だな」
 ベルナールが呟いた。
「ああ、幸せな夢だ」
 アランも、応えを呟く。



「……目が覚めた時、それが幸せな“夢”だって思い知らされる」



 じり、と最後の瞬きを示して、蝋燭の炎は掻き消えた。
 再び沈黙に包まれた闇の中に、鎧戸を打つ雨の音が微かに響いていた。




初めて書きました、ベルばらサイドストーリー。
まさか初書きがアランとベルナールになるとは
思いもしませんでした。おまけにこんな暗い話とは。
感想など頂けると幸いです。



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