真昼の月


 庭のベンチにいつまで座っているのだろう、あの人は。
 窓越しに眺めた先には、一人の男性がベンチに凭れ、がっくりと首を仰向けにしていた。
 深い緑の影が彼の背中に踊るように映っている。
 一時間ほど前までは、その葉陰は彼の肩先を掠めるくらいだった。
 ……日が暮れるまでああしているつもりかしら。
 彼女は時計見遣り、そっと庭への扉を開けた。

「いつまで日向ぼっこをなさっているの? ダーヴィト」
 ベンチに腰掛けた男は仰向けた首をそのまま目一杯反らせて、声の主を確認した。
 彼の眇められた瞳にやわらかな芝生を踏んで歩いてくるマリア・バルバラが逆さまに映る。
「ご機嫌はいかがですか? 奥様」
「……少なくとも旦那様ほど寛いではいないわ」
 彼女は微笑みながら彼に答えを返した。
「左様でございますか。それではこの特等席を御譲り致しましょう」
 体を起こしてすかさず立ち上がろうとするダーヴィトをマリア・バルバラは押し留めた。
「それより、もうとうに午後のお茶の時間は過ぎているのですよ」
「あ、これは失敬。何しろアーレンスマイヤ家はベンチまでもが高級ソファのような居心地で……」
「ダーヴィト。貴方は本当に冗談の区切りが付かない方ね」
 マリア・バルバラの笑顔が更に深くなる。
 年上の妻の言葉に照れたように、ダーヴィトは自分の首筋を撫でた。
 その様子に、妻の微笑みが笑いに替わった。
「ふふ、あんな姿勢でずっと座っているからですよ。首が痛いのではなくて?」
「……ええ、そう言われればなんだかそんな気がしてきます」
 ダーヴィトはぐるりと頭を回して頚骨の具合を確かめた。
「それにしても、ずっと空を見上げていたわ。なにか面白い物でも飛んでいたのかしら」
「いいえ、月を見ていたんですよ」
「月?」
 二人の視線が空へと向かう。
 初夏の薄青い空には、白い月が佇んでいた。
「まあ、綺麗ね」
「ルネ・ラリックのガラス細工のようですよね」

 中空に漂う真昼の月は、夜とは別の表情をしていた。
 輝きもせず、雲よりも硬質に、天の遠い場所に球体として浮かんでいた。
「夜の月はね」
 ダーヴィトが視線を空に向けたまま呟く。
「夜の月は、闇の帳に張りついている銀皿みたいだ。明るく輝くけれど、何故か平面に見えませんか。それと比べると、昼間に見える月は淡い光の加減でちゃんと球が空に浮いているように見えません?」
 マリア・バルバラは目を細めた。
 青空の翳りを受けて、少し欠けている部分に銀糸程の細さで月の輪郭が見えた。
「真昼の月はとても三次元的で、我々の住んでいる世界が立体であることが実感できるんです。地球も球体で、月も球体で、二つの星が広大な宇宙の中に浮かんでいる……」
 ダーヴィトは瞼を閉じた。
 オパール色の月を隠してしまうように。
「ねぇ、少し悲しいような気がしませんか。二つの球が暗黒の中にぽつんと浮かんでいるんですよ。いっそ平面の月ならこんな事を考えもしないのでしょうけれど……。どれほど他の天体よりも近い所にあっても、ホラ、あの儚い月球はあんなに遠くに在るんです。偶然重力と引力のバランスが釣り合う所で地球と月が位置しているに過ぎない。世界が三次元に見えれば見えるほど、空の高さと月の遠さが分かってしまう」
 瞼を開けると、やはりそこに在る真昼の月。
 壊れそうで、消えそうで……遠すぎて、届かない。
「こうして月が立体であるのを感じる度に、ああ、地球には月が在ると安心して、そのあとすぐに、結局お互いに孤りだと思うんです……衛星なんて言葉の上だけで、月は地球を守っているわけじゃない、届かないほど遠く孤独に宇宙に浮かんでいる、と」

 星すらも孤独なら……その上にいる人間も、同じように。

 ダーヴィトの口は、それ以上の言葉を言わなかったけれど。
 傍らに立っている彼女には彼が飲みこんだ声が聞こえた。
「……随分情緒的な考え方をなさるのね」
「ご存じなかったんですか? 貴方の夫はロマンチストなんですよ」
 彼になんと伝えればいいだろう。
 時々こうして人間の孤独を延々と考えてしまうこの人に。
 二人とも「喪失」を知らないわけではない。
 「孤独」を知らないわけではない。
 それでも。
 静かにベンチを廻り込んで、マリア・バルバラは特等席に腰掛けた。


「……それでも、月も地球も傍にいるからよいのではなくて?」

 マリア・バルバラの言葉に、上空をさ迷っていた視線が急降下で地上に戻る。
 隣の彼女を見つめる。
 近すぎず遠すぎず、夫婦としての丁度よい距離に互いに座っている。
 貴方が言えなかった言葉も、呼吸を飲む音から分かる距離にいるから。
 そんな声が聞こえてきそうな優しい黒い瞳には、白色透明の月の欠片が映っている。

「そうですね……ずっと、傍に」

 ダーヴィトは、もう一度彼方の月を眺めて微笑んだ。



 例え地球と月が物理学上の均衡だけの関係だったとしても。
 きっとそれは偶然という幸福が齎したバランス。





なんだか訳の分からない話になってしまいましたが(汗)
オル窓の中で一番好きなカップルです。こんな夫婦になったのではないかと妄想。
真昼の月を見ると、自分はZ軸がとてつもなく長い世界に住んでいるなぁと実感します。



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