君の手を



 頬に暖かさを感じる。
 関節の張った長い指。君の大きな手だ。優しく僕の頬を撫でてくれている。
 ああ、だけど僕の瞼は随分重いんだ。待ちくたびれてしまったんだよ、君があんまり遅いから。確かに今日は遅くなるとは聞いていたけれど……待っていたんだよ。
「……リウス、ユリウス」
 君の声は昔から殆ど変わっていないね。少し高めで小さな声。
「こんな所で寝てたら風邪引いちゃうよ」
 こんな所で寝ているのは誰のせいだと思っているの?
「ほら、ユリウス」
「う……ん」
 頬を撫でている手を掴んで、引き寄せる。袖口から雨の匂いと微かな百合の香りが漂った。今日もきっと、どこかのファンに花束を貰ったんだね。この上質なフランネルのジャケットが抱く大きな百合の花束は、それはサマになるんだろうな。僕は目を閉じたまま、見知らぬファンにちょっとした対抗意識と優越感をぶつける。彼のかぎざきの付いた袖なんて、見たことないだろうって。
 君の指は困ったように僕の爪を辿り、戸惑いながら、でもしなやかに僕の指に絡める。全く、無理矢理起こそうなんて考えもしていないんだから。もどかしくなるくらい君は優しいね。……でもこの優しい指が、激しく鍵盤を叩き、感情の逆巻く奔流を旋律として創り上げる。不思議だね。どっちが本当の君なんだろう?
 僕は、今が本当の僕。
 僕は君の前でだけは本当の自分でいられる。
 商談のためと称してウィーンへ来てもう随分とこっちにいる。ドイツは姉様に任せて、いっそ僕はオーストリアを拠点にしようかとも相談している。そうすれば、このまま僕は君の家にずっといられるから。ずっと、君と一緒に。
「風邪ひくってば、起きて」
 雨の匂いが近くなった。
 黒髪の一筋から、柔らかな春の雨が一粒滴って僕の瞼を濡らした。
 そして君の冷えた口付けが頬に降る。
 冷たい唇が触れた場所から、瞬く間に広がる熱い想い。
 もういいや。君が予想以上に遅く帰ってきたことも、おそらく綺麗な女の子から貰った花束のことも、もうどうでもいい。君がこうして軽くキスを落としてくれるだけで、あらゆる不機嫌は吹っ飛んでしまうんだから。
 もしも……あの雨の夜、君の手を掴んでいなかったら。
 僕は捕えた指にそっと唇を寄せた。

『おかえり、イザー……』

* * *

「……リウス、ユリウス」
 重い瞼を押し上げて、ユリウスの霞む視界に映ったのはずっと待っていた愛しい夫の姿だった。
「おかえり、アレクセイ」
 花が開くように微笑んだ彼女をアレクセイは抱き寄せた。ユリウスの左頬に軽く唇を押し当て、右頬を固い指先で撫でた。
「嬉しそうな顔して寝てたな。良い夢でも見たか?」
「夢……?」
 いつものユリウスが脅かされる悪夢でなくてよかった。そう思ってアレクセイは何気なく言った言葉だったが。
「お、おい! ユリウス?」
 指先を濡らす雫に驚き、アレクセイは妻から体を離した。ユリウスの目から涙が静かに流れていた。
「どうした? 怖い夢だったのか?」
「え……あれ? どうして僕泣いてるの。どうして……」
 ユリウスの瞳に感情はない。悲しみも、恐怖も、喜びも映さずにただ涙を零している。
「夢……見てた? ……わからない。ううん、怖くないよ。悲しくもない。大丈夫だよアレクセイ、大丈夫」
 それでも、ユリウスの涙は止まらなかった。夢の中身も、涙の理由も分からないまま彼女は泣いていた。
 もしも……あの雨の夜、彼の手を離していなかったら。


 それは、記憶と共に失った感情――“懐かしさ”に震える、涙。




初オル窓サイドストーリーです。……また夢ネタ。
記憶喪失になったらきっと「懐かしい」という感情も
無くなるのではないかな、と。それとも「懐かしい」
が残っているから記憶が戻るのでしょうか?



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