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Cantame!
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「私ばかりが楽しんでいるというのも、不公平な気がしないか? アンドレ」

 何を突然、とアンドレは閉じていた瞼を開いた。先程まで彼の耳を心地よく潤していた音楽は消え、巧みに音色を操っていた愛しい指はG線を押さえたまま止まってしまっている。
「何が不公平なんだ?」
「私だけが楽しいということが」
 オスカルの言葉にアンドレは更に瞼を開いてみせた。目を見開く“わからない”という仕草だ。オスカルはヴァイオリンを肩から外し、目の前の長椅子に座った。そう、アンドレの隣に。
「私はヴァイオリンを弾いて、お前はいつも聴いてくれるだろう?」
「ああ」
「私はヴァイオリンを弾くのが楽しい」
「そうだろうな」
「しかし聴いているお前は楽しくないのではないか?」
 アンドレは思わず噴き出しそうになった。
「何を今更」
「確かに今更だが……。悪かったな、今頃になって気がついて」
 オスカルは凭れようとしていたアンドレの肩からすっと頭を離した。アンドレのことを思って言った「不公平」という言葉だったが、優しい恋人に「今更」などと言われると素直に自分の温もりを感じさせたくなくなるのだ。
「違う違う。怒るなオスカル。そういう“今更”じゃないんだ」
 と言ってアンドレは離れかける彼女の体を引き寄せた。
「楽しくないはずがないだろう?」
 お前と一緒なのに、と髪を撫でる。
 実際アンドレはオスカルのヴァイオリンを聴く時間が好きだった。最愛の人と居て、ましてやその人が楽しそうに音楽を紡いでいるのに、楽しくないはずがない。
「お前がわざわざ俺に弾いてくれている、というのがまた最高だ」
 少しおどけてアンドレが言うと、オスカルの頬が鮮やかな朱色に変わった。アンドレの冗談は、オスカルの意図する所のど真ん中を射抜いてしまったのだ。
 衛兵隊の仕事もして、それから家の中の仕事にも追われる彼に僅かでも休息を、とヴァイオリンの聴衆として座らせていたのは以前までの事。今でも『演奏を聴かせるために座らせている』という図は変わってはいないが、演奏者の気持ちが変わってしまっている。アンドレと二人きりでいたい、アンドレのためにヴァイオリンを弾きたい……と最近ではつい長い曲を選んで弾いてしまう。
「……そうなると、やはり不公平だな」
 アンドレの胸に顔をうずめて――血が上った顔を見られないように――オスカルは再び「不公平」を唱える。
「何が?」
「私のためにアンドレは何か弾いてくれないのか?」
 今度はアンドレがうろたえる番になった。
「俺がぁ!? ……お、俺は楽器なんか弾けないぞ。いや、お前のために何かをしたいというのは、当然思うんだけど……しかし……」
 アンドレが本気で困っているのをクスクスと笑っていたオスカルだったが、この小さな反撃が次第に飛びっきりの思い付きのように感じられた。いつもアンドレは私の為に色々な事をしてくれている。それだけでも十分なはずなのだが……
「お前も私のために何か一曲。そうでないと不公平だろう」
 もっと、と欲しがってしまうこの恋心はなんとあさましいのだろう。アンドレに対しては自分の我侭を押さえることが出来ない。
「だから……楽器は無理だって……」
「有るではないか。楽器が」
「ヴァイオリンなんて弾けないぞ」
「違う。それじゃない」
「それ以外に楽器なんて……」

「声」

 アンドレを見つめて、オスカルは悪戯っぽく微笑んだ。
「小さい頃、お前が住んでた村に来たジプシーの歌を唄ってくれただろう? あれがいい」
「あれがいいって……もう殆ど憶えてないよ」
「じゃあ酒場で流行りの歌でもいいぞ」
「とんでもない! そんなのお前に聞かせられるか! ……わかったよ。思い出してみるよ」
 アンドレは眼を閉じて、口の中で微かに歌詞を呟きはじめた。暫くして指で拍子を取り始め、唇から異国の言葉が零れ出した。



 ……Me subiste al caballo
Fuimos contando las flores que salen nueva en Mayo
y me di cuenta enseguida, que estaba enamorado

 優しく、深い声。
 低く、甘く、ゆっくりとアンドレの声はオスカルの耳に浸透していく。
 三拍子を指で叩きながら、アンドレは記憶の底に眠る歌を少しずつ起こしていった。


Me besaste en la cara
son rojo mire pa el suelo, para no me di a la parabla.
Y son castizo quiero……

 幼い頃は分からなかったが、ジプシー達が歌い踊っていたこの曲は、随分とロマンチックな恋歌だった。歌詞を思い出すと共に、アンドレの瞼の裏には過去の映像がぼんやりと映し出されていった。
 村外れの森に野営していた彼らを、こっそりと見に行った時にこの歌を覚えたのだった。大人達はジプシーに近付くな! と毎日のように言っていたが、藪の間から見える彼らは恐ろしい人攫いなどには見えなかった。焚き火の回りで手を叩き、朗々と歌い、男と女が互いの腰に腕を回してくるくると陽気に踊るのを、アンドレは時間を忘れて魅入っていた。

 オスカルも懐かしいメロディーと、体の芯に響くアンドレの声に酔って昔を思い出していた。
 まだアンドレがジャルジェ家に来たばかりの頃、彼はこの歌を時々口ずさんでいた。スペイン語が出来るのか、と驚いたが「聞こえたまま歌っているだけだよ」と恥ずかしそうに歌いやめてしまった。しつこく何度も続きをねだって漸くもう一度歌ってくれた。それから村の事やジプシーの話をしてくれ、オスカルは知らない世界から来たアンドレを素晴らしく素敵な友達だと感じたのだ。

 その素敵な友達は、今は素敵な恋人になって同じ歌を唄ってくれている。昔も今も、私の為に。

 そう思った瞬間、オスカルは自分の感情が急激な速さで沸き立つのを押さえられなくなった。歌を形作るアンドレの唇は極上の楽器だった。声という柔らかな旋律がもっと欲しくなる。もっと近くで、その響きを感じたくなる。衝動のまま、オスカルはアンドレに引きつけられた。直接体の中に、音楽を吹き込んで欲しくて……オスカルはアンドレに唇を寄せた。 

……Que se me clavo en la alma

 優しい歌が急に止まり、そっとオスカルの体が押し返された。――くちづけの拒絶――アンドレの思いもかけない反応に、オスカルは凍り付いた。
「………」
 何故? と訊こうにも言葉が出ない。
 アンドレが、半分だけ黒耀の瞳を覗かせて呟いた。
「……唇を塞がれると、歌えない」
 からかいを含んだ声音と暖かい微笑に、オスカルの体を包んでいた氷はたちまち溶けた。
「確かに。その通りだ」
 ではこうしよう、と言ってオスカルはアンドレの頬に薔薇色の唇を寄せた。そして軽く、何度も接吻を落とす。
 そう、こうすれば。
 こうすれば、アンドレの歌がオスカルの耳に直接流れてくる。……まるで耳元にくちづけられているように。

Cantame, me deijiste, cantame,
Cantame por el camino y agarra
tu cintura de cante a la sombra del fino


……二人、馬に乗って
5月に咲き始めた花たちを数えていった
その時気が付いた。彼は私に恋をしていると

薔薇色のキスで、私はうつむいて
何も言えなかったけれど
愛しているという言葉が……

……私の心に突き刺さった。

唄って、私のために唄って!
巡礼の道中、あなたの唄を掲げて
美き酒に乾杯!



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「Cantame」はフラメンコの踊り“セビジャーナス”に使われる歌です。
4番まであり、ロシオ巡礼の道行きで恋に落ちた男女の物語になっています。
 フラメンコの歌にOAを感じてしまい、練習中にニマニマしてしまう私は
かなり困った生徒です。

 歌のように甘く甘く、を目指したのですが……甘いの読むのは大好きでも
書くのは恐ろしく難しいことを痛感しました。



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