午前10時、空と海


 あの丘の上まで行こう。

 その提案をしたのはオスカルだった。
 ベルサイユの屋敷でも木に登ったり噴水に飛びこんだり……と、およそ同じ年頃の女の子がしないようなことをする少女だったが、ここへ来てから更にそのお転婆――腕白と言うべきかもしれない――に磨きがかかっていた。夏の休暇と視察を兼ねて、ジャルジェ将軍とその家族及び使用人の幾人かは領地にある別荘に滞在しているのだ。彼方まで広がる森や野原、清らかに湧き出る泉、柔らかそうな青草を食む牛達と刈り取りを終えた麦藁が金色にうずたかく積まれている農家。旅では普段見ることの出来ない風景に、大人でさえも開放的な気持ちになるものだ。ましてや子供においてをや。

「……でも、あんまり遠すぎるんじゃないかな」

 オスカルの提案は確かに魅力的なものだった。しかしアンドレは少し顔を曇らせながら答えた。アンドレがジャルジェ家に引き取られてからもうすぐ一年が過ぎようとしている。未だにオスカルには剣の稽古でこてんぱんにされるが、彼は彼なりにオスカルの護衛であり兄弟であるつもりなので、つい心配の方が先に口に出てしまったのだ。
「そんなことないよ! ベルサイユから来る時にあの丘の麓の道を通っただろう? そこから別荘まではすぐだったじゃないか。そんなに遠くないよ」
「そうだったけ? きっとそれは馬車が速いからさ。歩くと結構遠くないかな?」
「大丈夫だよ。それにさ、あの道を通った時木立の間に海が見えたろう? きっと丘に上ればもっと良く見えると思うんだ」
 アンドレの黒い瞳が一瞬明るく輝いた。しかしすぐに別荘の方を振り返り、思案の顔に戻ってしまった。渋るアンドレにオスカルは少し苛々してきた。
「いいよ! じゃあ僕一人で行く!」
「ま、待ってよオスカル! ……わかったよ。行くよ、行く」
 男の子として育てられているこのお嬢様と自分のやり取りは、すっかりこういうパターンに嵌ってしまっているなぁ、とアンドレはこっそり溜息をついた。

 朝の風は野原を覆うライグラスをなびかせ、軽やかに丘まで上っていく。
 大人達に見つからないように、庭の垣根をくぐり抜けて二人は歩き出した。目の前に広がったのは真っ青な空と万緑の野のコントラスト。天の高いところから雲雀の声が降ってくる。最初は別荘の方を気にしながらで歩みの遅かったアンドレも、目に飛び込んできた心地よい景色に足取りが軽くなっていった。
「うわあ! すごい広い!」
「ね、ね? 一緒に来て良かっただろう、アンドレ!」
「うん! 俺の住んでた村に、こんな広い野原なかったよ!」
 どんどん別荘は小さくなっていくが、遠くの丘を目指す二人が振り返ることは無い。
「アンドレ、あの木まで競争!」
「あ! ずるいオスカル!」
 そして子供というものは真っ直ぐ歩くことはないのだ。
 追いかけっこをしたり、羽根模様の美しい蝶に誘われたり。

 そんなわけで、丘の登り口に来た頃には二人とも額に汗を浮かべていた。オスカルが考えていたよりも丘は遠くにあり、アンドレが考えていたよりも頂上は高かった。
 太陽は徐々に高度を増して空気を暖めていく。野原から吹きあがってくる風は汗を冷やしてくれるけれど、坂道を上がりつづける二人にはほんの一瞬の爽快感しか与えられない。
 丘の中腹まで来たとき、とうとうオスカルは座りこんでしまった。
「大丈夫? オスカル……」
「……ただの休憩」
 アンドレの問い掛けにオスカルは唇を尖らせて呟いた。
「ありがとう、俺も実はちょっと休みたかった」
 と言ってアンドレがオスカルの隣に腰を下ろすと、彼女は更に不機嫌そうな顔になった。
「だったら早く言えば良かったのに」
「言ったらまた弱虫って言うだろ。だから我慢してたの!」
「言わないよ! そんなこと!」
「嘘だ! 絶対言うよ」
「嘘じゃない! 言・わ・な・い! 僕はウソツキなんかじゃない!」
 お互いに紅潮した頬を更に赤くして言い合う。ベルサイユではここから掴み合いの喧嘩になるのが常だったが、疲れがそうはさせなかった。オスカルはそっぽを向いて斜面に寝転がり、アンドレも顔を逸らせて手元の草を千切り出した。
 喧嘩したいわけじゃないのに……。
 二人とも、同じことを思った。オスカルがアンドレを丘に連れていこうとしたのにも理由があり、アンドレも休みたいのを我慢していたのには理由がある。二人の間を吹き抜ける風が、いやに冷たい気がした。
「海……見えるかな」
 とても小さな声でアンドレが呟いた。
「……見えるよ」
 それよりももっと小さな声でオスカルが呟いた。そして、弾みをつけて一気に体を起こし立った。
「見えるよ!」
 今度ははっきり大きな声で、アンドレに向かって言った。
「見えないって思っているものは見えないんだ。絶対見える! 僕はウソツキじゃないもん!」
 オスカルは幼い手をアンドレに差し出した。
「行くぞ! アンドレ」
日光を受けてオスカルの美しい巻き毛が一層輝く。キラキラと眩しい金髪を見上げていると、疲れと弱気が溶け去っていった。――海は見える、絶対に――。
 アンドレはその手を掴んで立ちあがった。

 二人はもうよそ見をしなかった。手を繋いで真っ直ぐ頂上を目指す。
 足は痛いし、日差しは強くなる一方だし、汗が首筋を伝って気持ち悪い。けれどどちらからも「休もう」とか「もう帰ろう」という言葉は出なかった。
 この丘の上まで行こう。
 丘の向こうに何があるかなんてもうどうでも良くなってきた。見えないと思っているものは見えない。だから、まず丘の上まで行こう。一歩ずつ踏み出していかなければ結局何も見えないのだから。

 ついに傾斜が途切れた。
 丘の頂上に着いたのだ。
 二人は眼前に広がった青に声を失った。

 丘の向こうに、海はあった。
 午前の太陽は空の色を淡く染め、その色を映す海も薄く透き通っていた。
 不思議な景色だった。二人の目に映ったのは果てしなく広い青一色。海と空が全く同じ色をして、その境目が見えなくなっていた。雲のない空と凪の海が作り出した風景に、まるで宙に浮かんでいるような奇妙な感覚に囚われてしまう。
「アンドレ……」
 青に圧倒されていたオスカルが囁いた。
「この空と海を、お前にあげる」
「え?」
 アンドレは隣に立つオスカルを驚いて見つめた。しかしオスカルの泣き出しそうな目は正面の青に注がれていた。
「あのね……ここにいる間に、お前、誕生日が来るだろう? ちゃんと、プレゼント用意しておいたんだけど……」
「え、うん……」
「ベルサイユに、置いてきちゃったみたいで……」
 最後の台詞は消えそうに小さな声になった。アンドレは思わず笑い出し
「なんだ、そんなこと!」
 と言った。
「そんなこと、じゃない!」
 俯き加減だったオスカルはやっとアンドレの顔を見て声を荒げた。
「お前は僕の一番の友達なんだ! だから、どうしてもお祝いしたいの!」
「でも、俺なんかにわざわざ……」
「なんかって何だ! この僕の友達が“なんか”なわけないじゃないか! いいかアンドレ、たとえお前でもお前自身のことを悪く言うのは許さないぞ!」
 自分は俺のこと弱虫って言うくせに。だから俺は、一つ大きくなるのを機に弱虫から抜け出そうと頑張っていたんだぞ。
 まくしたてるオスカルに少々理不尽なものを感じつつも、アンドレは喜びで笑顔になるのを抑えられなかった。
「アンドレはジャルジェ家の領地に来るのは初めてだろう? 僕が前に来たとき、海がとても綺麗だったんだ。ここまで上ったら、きっともっと綺麗に見えると思ってね。だから……だから、遠くても一緒に来たかったんだ」
「ありがとう、オスカル」
 今年のプレゼントは、アンドレが今まで貰ったプレゼントの中でも一番大きなものになった。嬉しくて、幸せで、アンドレはオスカルの手をしっかり握り締めた。
「オスカル! 来年も同じ物が欲しいな!」
「同じ物?」
「来年、また一緒に海が見たい」
「……うん! 来年は二人とも馬に乗ってここまで来よう!」

 海から吹く風が、優しく二人を包みこんだ。
 貴族とか平民とか、男の子とか女の子とか、そんなものに煩わされないでずっと手を繋いでいたい。

 真っ青に溶け合った、この午前十時の海と空のように。





出遅れすぎですが、アンドレお誕生日おめでとう!
持ちかえり不可の大きなプレゼントをアンドレに!
ちょうど午前十時頃は空と海が1色に見えやすい時間です(実家の近くでは)。



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