オスカルが伏せていた瞼をゆっくりと上げるのを、アンドレは息を詰めて見つめてしまっていた。睫毛が微かに羽ばたきのような音をたてるのではないかと、耳をそばだてた。
静かな夜だった。
星も瞬かないような、静かな夜。冷たい空気は風に乱されることも無く、密かに屋敷を包んでいた。
「記念日は」
オスカルの唇が、瞼と同じゆるやかさで開かれた。
「これくらい静かな方が良い」
その言葉にアンドレは、いつもよりも厳かな手付きでワインをグラスに注ぎ入れた。
「どうして?」
「静かな方が、考え事には向いている」
記念日と考え事はどこで繋がるのだろうか。グラスを手渡しながら目で尋ねると、オスカルは小さく唇の端を持ち上げ、呟くように答えた。
「記念日は、一年のうちの一日だ。その日を越えたからといって、次の日に何かが変わるというわけでもない……昔は、変わっていた気がするんだがな」
「……そうだな。いつもお前は誕生日の日にはしゃいでいたのに、次の日には大人しくしていよう大人しくしていようって頑張っていたよな」
懐かしいからかいに、オスカルは笑みを深くした。オスカルは、アンドレが十二月二十五日のことを決してノエルと言わないことが好きだった。
「確かにそうだった。一つ大人になったのだから、頑張って背伸びをしていたんだぞ。だがそれも……いつの間にか通過する日の一つになってしまった。ノエルの厳粛な雰囲気は大切にしているし、新年祝賀会にも改まった気持ちで参加している。でも、昨日から今日、明日をこなしていくうちに、特別な日も次第にいつもと同じ日になっていく」
グラスの中で深紅の液体を揺らすと芳醇な香りが立ちのぼった。その仄かな香りすらも静寂を揺るがす。
「……昨日に追われ、今日を走って、次の日を追いかけて……そして見失う。だから、せめて記念日くらいは、見失いそうなをものを静かに見つめたい」
「見失いそうなもの?」
「記念日は節目だからな……これまでとか、これからとか……」
そう言ったきりオスカルは黙り込んでしまった。
蝋燭の芯が焦げる音。グラスを傾ける時の衣擦れの音。ワインを嚥下する喉の音。いつもなら聞こえない程の微かな音が部屋の中に響く。沈黙の中、アンドレは呼吸すら憚る様に静かに戸口に控えていた。オスカルの言葉の続きを待っていた。わざわざ待てと言われた訳ではないが、アンドレにはオスカルの沈黙が待てと言っているのが聞こえた。
グラスが空になった頃、オスカルが言葉を紡ぐために息を吸うのが聞こえた。
「いつもなら考えないのだがな」
それは凛と空気を震わせる音だった。
「もしも私が女として育てられていたら、というのを考えてみた」
アンドレにとって随分と意外な言葉だった。王太子妃様付きの近衛仕官として宮殿に上がるようになった頃から、オスカルは『もしも』の話をほとんどしなくなっていたからだ。
「珍しいな……それで?」
アンドレは窓際のテーブルに近付き、デキャンタからグラスに二杯目を注ごうとしたが、軽くオスカルに制された。
「結論から言うと、今よりも退屈だろうが今よりも楽だったと思う」
「……そうか」
アンドレはオスカルの顔を見られず、テーブルだけをじっと眺めた。燭台の影が炎の揺らめきと共に磨かれた天板に映りこんでいた。滑らかな楡の面はガラスを通した星までも反射しそうだ。
「今の武官としての人生を後悔しているのではなくて、唯そういう、全く違う人生もあったのだな、と。振り返ってそう思っただけなんだ」
「辛いなら、」
「だから。後悔していないと言っただろう? 私が女として育っていたら、姉君達と同じ道だ。先例がありすぎて先が見えて仕方がない。行儀作法を叩き込まれて、十四、五歳で嫁いで、子供を産んで。それさえ終われば後は毎夜のパーティーしかやることがない。今と全く違うが、大分退屈だ」
「けれど今よりも、苦しいことは少ないぞ?」
「……ああ」
「休暇直前まで仕事に追われることはないし、パーティーだってもっと盛大に開ける。記念日が、ちゃんと特別な日として過ごせるんじゃないか?」
「ああ、そうだな」
オスカルが今の人生を厭うのならば、それは自分の責だ。辛いことも、苦しいことも、全て自分の目の前で起こっているのに……オスカルの言葉を俯いたままアンドレは聞いた。
――狂風を遮る盾になれない、寒さを癒す外套にすらなれない――
無力感に苛まれる。
オスカルが小さく溜息をついた。
「そして女の私は、特別な記念日だけを楽しみに一年を過ごすようになるんだろうな。……それで逆だと気付いた。今の私は毎日が特別だから、記念日が特別ではなくなるんだと。いつも新しいことが舞い込んでくる。いつも情勢は変わる。どれ程慌しくても、辛くても、この人生が全く違ったものになってしまうのは惜しい。惜しいくらいに特別なんだ」
穏やかな声に、アンドレは俯いていた顔を上げた。
オスカルは微笑んでいた。この夜のように静かな笑みだった。
だから、漸くアンドレも笑うことができた。
「お前が女として育てられていたら、俺の人生も変わっていたな」
オスカルが“今”を肯定してくれて良かった。そう思って何気なく零したアンドレの一言は、オスカルをひどく驚かせたようだった。
「そう、か?」
テリーヌを塊で飲み込んだみたいな表情だ。
「そうだよ。おばあちゃんの縁でジャルジェ家に引き取られるまでは同じだっただろうけど、お前の従僕ってワケにはいかないさ。宮殿に出入りを許されるどころか、お前と話をすることも無かったんじゃないか? 馬丁として、オスカルお嬢様のお輿入れの馬車を仕立てることくらいが、お前との人生唯一の接点だったかもな」
とアンドレが肩を竦めると、再びオスカルが思案するために瞼を伏せた。それを見て、アンドレは黙って二杯目のワインを注いだ。
今度の思案はそれほど長くはなかった。
一杯目よりも少なめのワインをくいっと飲み乾し、オスカルは澄んだ瞳でテーブルの傍らに立ったアンドレを見上げた。
「さっきのは訂正だ。私が女として育てられていたら、今よりも退屈で絶対に楽しくない」
そう言って悪戯っぽく笑った。
「どうして?」
「実はな。お前に言われるまで、全く気が付かなかった。可笑しいだろう?」
「何が?」
「私が別の人生を歩いていても、当然お前は私の傍に居ると思っていた」
こいつは。
なんてことをなんて簡単に言うんだ。
アンドレは心から今が夜であることに感謝した。蝋燭の灯りでは、急激な顔色の変化を悟られることはないだろう。
「お前がいないなんて、考えられん」
とどめだ。
アンドレは、こめかみの辺りを軽く押さえて眉根を寄せた。
「……………オスカル。お前、それじゃあ逆だろう」
「逆? 何が」
「何って…………お前の記念日に、俺が貰ってどうするんだ」
オスカルは、またも喉に何か詰まったような顔をした。アンドレの言っている意味が不明過ぎてわからないのだ。
アンドレが、この静かな記念日に素晴らしく大きなものをひどく無造作に贈られたというのに。