魚が目覚めるとき


 「私がいないときは何をしているの?」
 「……目をあけて眠っているのよ」

 私がこの町に来たのは粉雪の舞う季節だった。鉛色の雲が、まるでこれから向かう工場の状態をあらわしているようで、ついついアクセルを強く踏んでしまう。海岸沿いの道を、長い付き合いのカローラは少し機嫌の悪そうなエンジン音を響かせて走っていく。
 経営状態が悪化していることをわかっていながら、だらだらと今までの体勢を続けてきた前任者は不況のせいもあってリストラされてしまった。彼に対して同情はない。建て直しを命じられたこっちの方こそいい迷惑だ。これもていのいい左遷なのだ。これからしょっちゅうこの田舎町に通うと思うと……

 浜辺に白い服の女が座っていた。

 車を止めて窓をあける。この寒いのに何をしているのだろうか。まさか入水自殺でも図っているのでは、と思わず声をかけた。
「どうしましたか?」
「え……。あぁ、海に降る雪を見ているんです」
澄んだ若い声だった。長い髪が風にまかれて顔は良く見えない。ふいに立ち上がり、こちらに近付いてきた。
「あなたも東京の人?雪が珍しい?」
「いいえ。ここらはよく雪が降りますよ」
なにも面白くなさそうな表情と声だったが、その大きな瞳と肌の白さに惹きつけられた。
 それが、奈美との出会いだった。

 彼女と再会したのは、歓迎会の二次会で行った小さな繁華街のクラブだった。安酒と煙草の匂いがこもった店内で、真っ白なスーツが際立って見えた。
「……このあいだは、どうも」
おおよそホステスらしからぬ挨拶で、彼女は私の席についた。どことなく困ったような曖昧な笑顔を浮かべていた。白魚の手が慣れた風に水割りを作る。
「やぁ、こちらこそこの前はどうも。この町の人だったんだ」
「ええ、まぁ。坂本さんは常盤物産の工場長なんですってね。単身赴任?」
「通いみたいなもんだね。この年ではさすがに疲れるよ」
「あれぇ?奈美はもう知り合いだったワケ?やだ、あやしー」

 工場は、長年の積もり積もった悪習のせいで残業ばかりだった。仮眠室で泊まる日が増え、それはつまり奈美のいる店に行くことが増えるということだった。
 私が奈美の常連になるまでそう時間はかからなかった。奈美はいつも白い服を着て、白い手で水割りを作り、淡雪のような微笑みを浮かべていた。私は仕事のことや息子の受験だとか、軽い愚痴を聞いてくれる相手が欲しかった。その役に奈美はうってつけだった。相槌を打って、困ったような曖昧な笑顔をするだけでそれ以上私に踏みこんでこない。私自身は奈美のことを一向に知らないままだったが、私達の距離は近くなっていった。そのうち、残業が言い訳になるようになった。
 奈美のアパートは初めて会った浜辺の近くだった。家具の少ない無機質の色合いの部屋だった。週末には家族の元に帰ってしまう私に不満一つ言わず、いつも奈美はその部屋で待っていた。私のために夕食を作って待っていた。私以外のために水割りを作るのはやめろと言ったのだ。夜には波の音がうるさく窓を打つ部屋で、1週間の半分を過ごすようになった。
 実際そんな関係になっても私は彼女のことを知らなかった。なんと、彼女の本名すら知らないままだった。奈美という源氏名を知っているだけだ。しかしそれがそんなに不都合なこととも思えなかった。私はどうせ工場の仕事が終わったら帰ってしまう身だし、彼女もそのことは分かっていた。1度だけ、奈美を詮索するようなことを聞いたことがあった。彼女が店を辞めて暫くしてからのことだった。
「私がいないときは何をしてるの?」
奈美の部屋には生活臭がなかった。ホステスをしていれば眠りに帰るだけだからそういう部屋にもなるだろうが、今では彼女はずっと――どうやら外に出かけるのが好きではないようだった――部屋にいるはずなのだ。
「……目をあけたまま眠っているのよ」
と、彼女は答えた。男心をくすぐる上手い答えだと思った。
 そうして、この町に通って2年半が経とうとしていた。徐々に工場は立ち直り始め、残業も減った。雪の季節は終わり、花が咲き、日差しが眩しく緑を照らすようになった。たびたび本社に呼び出される仕事が多くなり、奈美の所へ通うのも間遠になってきていた。それでも彼女はなにも言わず、私の来る日は 夕食を作って、相変わらず淡雪のような微笑みを浮かべていた。

 

「ねぇ、水族館に行きましょう」

10日ぶりに東京から来た金曜の夜、突然奈美が言った。
「おいおい、私は明日また帰るんだよ」
露骨に眉を顰めたが奈美がこんなことを言い出すのは初めてだった。いつもなら帰る場所のある私に無理なことは言わない女なのに。
「水族館に行きましょう」
もう一度、きっぱりと言った。
「……仕方ないな。午前中だけだぞ」

 翌日、奈美は驚くほど黄色いワンピースを着ていた。白以外の服を着ている彼女を見るのは初めてのような気がした。
「早く行きましょう」
海岸線の道を30分ほど走って、隣町にある水族館についた。青い館内で、奈美のワンピースの裾が深海の緑色になって揺れている。今日の彼女はいつになくはしゃいでいるようだ。
「魚が好き?」
「ええ、好きよ。海も好き」
……こんな会話も初めてのような気がする。奈美は私の好きな物を知っているが、私は特に聞いたことはなかった。
 奈美が一番大きな回遊式の水槽の前で立ち止まったまま動かなくなってしまった。
「どうした?」
ガラスの向こうで群れをなす色とりどりの魚が通り過ぎてゆく。奈美は、潤んだ黒目がちの目を見開いたまま瞬き一つせずに、魚を凝視している。
「魚には、まぶたがないんだってね」
  その様子をからかうように、私は笑った。
「……だから、眠るときも目をあけたままなの」
ようやく聞き取れる小さな声で呟いた。午前中とはいえ、土曜日の水族館は込んでいる。
「魚が目覚める瞬間って、どんな感じなのかしら。ずっと何かが見えたまま眠っているのかしら」
「魚に聞かないと分からないね」
「目覚めが……目覚めが今までの何かから抜け出るという意味なら、魚が目覚めるときは、まぶたを閉じたときかもしれないわ」
そういったきり、奈美は水族館を出るまで一言も喋らなかった。

 アパートまで送るといったが、駅に連れていってくれと言って聞かなかったので、仕方なく私は彼女を駅に送っていった。ところが、駅についても彼女は助手席から立とうとしない。うつむいて、目を閉じている。一つに纏め上げた髪が少しほつれ、白いうなじが初夏の日に晒されている。
 ゆっくり奈美は目を開いた。それから車を降りた。
「私は、私が思うより、あなたが好きだったわ」
漣のような声でそう呟いて、薫風に黄色いスカートをひるがえしながら駅の中に吸い込まれていった。

 彼女の言葉が気にかかりながらも、なかなか本社の仕事が進まず、3週間が過ぎた。これだけの期間連絡をしなかったことはたまにあったが、なぜか気になって電話をかけた。受話器の向こうからは機械の声が聞こえてきた。
 オ客様ノオカケニナッタ電話番号ハ、現在使ワレテオリマセン
肌が粟立った。どうして。なぜ。その言葉が頭の中を駆け回った。家に電話し「急に工場に行かなければならなくなった」と、妻の抗議も聞かずに叩き切り車を走らせた。

 奈美の部屋はなかった。少なかった家具の跡が残る部屋は、彼女が確かに存在したことを示すわずかな痕跡にすぎなかった。隣人に尋ねると、2週間前にどこかへ引越しをしたという事だった。 

 波の音が耳を打つ。湿った夜の潮風が頬を撫でる。……奈美と始めてあったのはこの浜だった。呆然と、砂浜へ足を進めた。
 うつむいて目を閉じた瞬間、彼女の長い髪や、真っ白で滑らかな肌、漆黒の瞳が、彼女との時間が、閃光のように胸を衝いた。彼女を探す手立てなどない。何も聞かなかったのは私なのだ。彼女が何を考えているかも知らなかった。あの時聞いた「好き」という言葉も、最初で最後のものだった。
 いつの間にか私は目を閉じたまま涙を流していた。これが魚が目覚めるときなのだ。それまでと違う何かが、目覚めなのだ。彼女が私を待っているのが当たり前だと思っていた。彼女がいることが当たり前だと思っていた。失ってみて、初めてわかった。決して言わなかった言葉だが

 私は、私が思うより、彼女が好きだったのだ。

 ………あの時、彼女は何から目覚めたのだろう。
 海に降る雪のように、儚い奈美の微笑みが、まぶたの奥を焼いていた。


  



222ヒット感謝!…にしては暗い話。
もっと爽やか君にすりゃよかったなぁ。
依頼テーマは「海」でした。

切り番ゲッターのバボレンジャー様に捧ぐ!

バボレンジャー様のHPへ

GO!

続編:沖をゆく鳥
(「字書き」のページに飛びます。ご注意下さい)



+BACK+ *HOME*