魚が目覚めるとき」の続編です。


沖をゆく鳥


「淋しくない?」
『淋しくなんかないわ。染まることがないから』

   雪が嫌いだった。家の中で雪の降る音を聞いていると、静かに閉じ込められていくような気がした。16歳の冬、生まれ育った雪深い田舎町から脱け出した。……雪の重苦しさに耐えられなかったのかもしれない。
 お金が欲しくて始めたホステスの仕事がいつの間にか本業になってしまった。景気と年齢に左右されながら、私は東京の繁華街を漂っていた。25を過ぎるといつの間にか東京からも離れてしまっていた。30が目の前になる頃には、あんなに嫌いだった雪が――もちろん故郷よりはずっと少ないけれど――降る町に来てしまった。

 せっかくのお休みの日なのに雪が降っている。部屋の中にいると閉じ込められそうな気がして、アパートの目の前の浜辺に出た。雪の降る日は海を見る。海には雪が積もらないから。
「どうしました?」
ぼんやり眺めていると、突然車道の方から声がした。
「え……あぁ。海に降る雪を見ているんです」
振り向きもしないで私は答える。東京のイントネーションの、中年男の声。深くてどことなく暖かい声に、髪にまとわりつく雪が解けるような気がした。声に惹かれて近付くと、カローラの窓から彼は私をじっと見つめながら尋ねた。
「あなたも東京の人?雪が珍しい?」
「いいえ。ここらはよく雪が降りますよ」
彼は私の顔を見つめ続けていた。
 それが坂本さんとの出会いだった。

 彼がウチの店に来たのは、雪の日から4日後のことだった。
「……このあいだは、どうも」
変な挨拶になってしまった。どことなく品の良い感じがする人に、こんな店は似合わない。ママの話だと、常盤の新しい工場長になった人だそうだ。
「やぁ、こちらこそこの前はどうも。この町の人だったんだ」
「ええ、まぁ。坂本さんは常盤物産の工場長なんですってね。単身赴任?」
「通いみたいなもんだね。この年ではさすがに疲れるよ」
「あれぇ?奈美はもう知り合いだったワケ?やだ、あやしー」

 彼はそれからちょくちょく店に来るようになった。そして、いつも私を指名してくれた。私は上手に笑えないから、愛想の良いホステスではないと思う。それでも
「奈美はその密やかな笑顔がそそるんだよ」
と坂本さんは言ってくれた。
 彼にとって私は都合のいい女だった。それもとびきり都合のいい女。愚痴を聞いてくれて、お酒を作ってくれて、優しく膝を撫でてくれる女。責任を負わなくてもいい、赴任先の遊び相手。そのうちお店以外で会うことも増えてしまっていた。そしていつしか客とホステスの関係は崩された。彼が私のアパートに来ることが当たり前のようになっていた。
 波の音が夜を渡る。腕枕をしてもらって彼の胸に寄り添って、カーテンの隙間から覗く月を眺める。闇に浮かぶ真っ白な球は手を伸ばせば届きそうなくらい近いけれど、決して触れることはできない。この距離は彼と私の距離だ。抱き合えるほど近いのに手に入らないほど遠い人。いつか帰る人。
「なぁ……もう店を辞めてくれないか?生活費、出すから」
髪を撫でていた手を止めて、明らかに嫉妬の混じった声で彼が囁いた。海上の月が少し近くに来た、と思った。1週間後、私は店を辞めた。

 彼は予想以上のお金を月々口座に振り込んでくれた。私は彼を待つだけの、気楽な生活に浸った。彼は私の経歴どころか今だに私の本名を聞こうとはしないけれど、そんなこと、私だってどうでもイイ。どうせ工場の仕事が軌道に乗るまでの遊びの関係だ。詮索されるのも面倒くさい。
「私がいないときは何をしてるの?」
ある日珍しく彼が私の事を聞いた。
「……目をあけたまま眠っているのよ」
彼の好きなひそやかな笑顔を浮かべて答える。こうして私は海上の月を時々手元に引き寄せている。光をより長く私の上に落とすように。彼が私に飽きたらまたどこかのお店で働かなくてはならない。
「淋しくない?」
その問いに私は彼にそっと縋り付くことで答えた。

 海と空が溶け合うほど青く染まる季節。工場が立ち直り始め、彼がこの部屋に来るのも間遠になってきた頃だった。

 妊娠していることがわかった。

 どうしよう。彼にこのことを言ってしまおうか。でもそれで捨てられたら?私はただ彼に流されただけの都合のいい女。どうしよう。どうしよう。ずっと続く関係じゃないとは分かっていたけど……。
 決断の時が来てしまったんだ。



  「水族館に行きましょう」

10日ぶりに彼が部屋に来た日。私は今までにしたことのないお願いをした。明日帰ることは分かっているけど、どうしても決めたいことがある。ひどく渋る彼にもう一度きっぱりと「水族館に行きましょう」と言った。
「……仕方ないな、午前中だけだぞ」

 翌日、私は自分でも驚くほど浮かれていた。いつも着ない黄色のワンピースを引っ張り出した。妊娠のことを言うか、このまま別れるか。今日はそれを決める悲愴な日にも関わらず、私は浮かれていた。
「早く行きましょう」
海岸線の道を30分ほど走って、隣町にある水族館についた。青い館内ではワンピースの裾が深海の緑色になってみえる。
「魚が好き?」
「ええ、好きよ。海も好き」
……こんな会話初めてのような気がする。彼に自分の好みを言ったことはない。自己主張をする女ではなく、自分色に染まる私を、彼は好きなのだから。あぁ、そういえば私はいつも白い服を着ている。
 一番大きな回遊式の水槽の前で、足が止まってしまった。大きな水槽の中の沢山の魚の中で、一匹だけ水流に漂うだけの魚がいた。目をあけて、他の魚と何ら変わらないのに、眠っているような魚。その魚から目が離せない。
「魚には、まぶたがないんだってね」
 からかうような口ぶりで彼が耳打ちしてきた。
「……だから、眠るときも目をあけたままなの」
眠っているの?漂っているだけ?あなたには何が見えているの?……いつ目覚めるの?
「魚が目覚める瞬間って、どんな感じなのかしら。ずっと何かが見えたまま眠っているのかしら」
「魚に聞かないと分からないね」
「目覚めが……目覚めが今までの何かから抜け出るという意味なら、魚が目覚めるときは、まぶたを閉じたときかもしれないわ」
イママデノナニカカラヌケデル。自分の言葉に心臓が締めつけられる気がした。 

 送ってくれるという彼の誘いを頑なに拒んで、駅に連れていってもらった。助手席で目を閉じて立ち上がらない私をきっと彼は変に思っているだろう。
 私の頭の中ではさっきの魚が泳いでいた。水槽を漂う魚。あれは彼に流されるだけの私だ。アパートで彼を待つだけでもいいと思っていた。彼は優しい。彼は私を縛らない。時々どうしても欲しくなる、寄り添って眠る相手をしてくれる彼。充分なお金をくれる彼。でもそれは私が水槽の中にいるからしてくれることなのだ。彼が来るのを水槽の中で待っているから、彼は私に餌をくれる。彼に必要なのは「私」ではなく「奈美」という架空の名前の女なんだ。

 水槽の中で彼を待ち続けるのは、私が嫌がっていた雪に閉じ込められるのと同じことだわ!

 私はゆっくり顔を上げ、目を開いた。街並みの隙間から海が見えた。水平線が見えないくらい、青い青い海と空。

「私は私が思っているより、あなたが好きだったわ」

 車を降りて、私はそう言った。スカートを翻して駅舎に入りながら、痛いくらいに彼の視線を背中に感じていた。……本当にそうだった。お金をくれて、私を束縛しない都合のいい男というだけじゃなかった。優しく抱いてくれる胸が好きだった。髪を撫でてくれる皺の多い掌が好きだった。私を包む深みのある暖かい声が好きだった。でもやっぱり彼は月なのだ。いくら波が惹きつけられても、届くはずがない。

 動き出した電車の窓一杯に海が広がる。
 引越しをしよう。目をあけたまま眠っていられる、優しい水槽を出よう。妊娠がわかって姿を消してくれるなんて、それはそれですごく都合のいい女なんだろうな、と苦笑した。それでも私はこの子と一緒に遠く広がる海にゆく。寄りかかる人がいなくても、風の吹きつける空に出る。あの瞬間に、私は目覚めてしまったのだから。いつまでもあなたの色に染まる都合のいい女ではいられない。水に眠り漂う魚ではいられない。

「淋しくない?」

彼の声が耳の奥で聞こえた。……淋しくなんかないわ。染まることがないから。海の青にも空の青にも染まらずに、真っ白な羽を広げて、自分の力で羽ばたいていく。


 私は、沖をゆく鳥になる。






1000HITおめでとうございます記念!
遅くなってごめんね。おまけに依頼テーマ「海」から
外れてる気が……。BGMが“あなたへの月”なのが
ダメやったんか?Coccoの魔力に負けたか?

どうぞ貰ってやってください(^^;

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