桃の香り、光の春



――6――

 気が気でない、気が気でない、気が気でない!

 甘い果物のような香りが幻のように鼻先を掠める。まさか彼女が……いや、気のせいだ気のせいだ気のせいだ!
 幽霊がいつどこから現れるか、僕は学校にいる間緊張しっぱなしだった。……黒板の傍らだとか、教室の窓の外とか(教室は三階にある)、もしかするとよりによって、僕の机の下からぬっと顔を突き出すかもしれない。そういった場合僕はどの様に対応したら良いのだろうか。
 驚く。
 まず最初に驚く。しかしそれからどうなる? クラスの誰にも見えないかもしれないのだ。一体僕が何に驚いているか、誰にもわからない。それなのに僕は驚いている。悪目立ち間違い無し……最悪だ。
 僕はビリビリと音がしそうなほど神経を尖らせて、その日は机に座っていた。

 なんて張り詰めた一日だったろう。これほど神経をすり減らして学校へ行ったことなんて今だかつてない。どこから現れても絶対に驚かないように構えていたというのに。
 結局幽霊は来なかった。幻覚、いや桃の幻臭はそれこそ幻だったのだ。

 家に帰り、無言で二階の自分の部屋へ上がった。階下のリビングから小さな「おかえりなさい」が聞こえたが、当然それに答える事もなく、部屋のドアを閉めた。
 ……ここにも幽霊はいない。
 出ていったのだろうか? それとも昨日の事はやはり夢でしかなかったのだろうか。どっちにしろ万歳だ。あんな非現実と二日間も付き合えるもんか。
 僕はベッドに倒れこんだ。視界がぐらりと回転し、窓辺の風景から天井の白に切替えられた。そこで僕は漸く自分が眠いことに気が付いた。そう言えば昨日は徹夜だったっけ。そう、幽霊がなんだか他愛もない事を喋っていたんだ。……幽霊? いないじゃないか。ああ、本格的に瞼が下がってきた。寝てしまおう。放り投げるように眼鏡を外した。なにしろ昨日はレム睡眠ばかりだった。きっと僕は一晩中夢を……

『ただいま』
「うわぁ!!」

 跳ね起きた。跳ね起きたら、僕を覗きこんでいた幽霊を通り抜けてしまった。あわわ。
「……いなくなってなかったのか」
『そうよ。アタシが見える唯一の人』
 桃の香り、金属質な高い声。恐る恐る振りかえった肩越しには、やはり幽霊がいた。
『ふうん、な・る・ほ・ど』
 幽霊は柔らかく体を浮かせた。床から約十センチほど上。
「なにが」
『ううん、何でもないのよ。気にしないで眠って』
 眠れるか。幽霊に覗きこまれながらだぞ?
「学校に……来た? もしかして」
『え? あは、行ってないよぉ。気にしないで気にしないで』
 両手を顔の横で広げ、イソギンチャクのように指をヒラヒラさせて幽霊は不自然に笑った。……来たんだな。
「さっき“ただいま”って言ってたよね」
『えー? そうだっけ。桃香覚えてなぁーい』
「小首を傾げて可愛らしいのは十代まで。あと生きている間だけ」
『げ、なによそれ! アタシ少なくともいきがって下手なメイクなんかしてる女子高生より綺麗よ!』
「ほら、やっぱり来てたんだ」
『あ』




久々の更新〜。あああ、まだそう言えばこんな所までしか書いてなかった。
純愛に持ちこめる日が遠い……。
さて、幽霊が見えなかった理由、気付いた方もいるのでは?



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