もしもあの時、僕らがうまくいっていたままだったら。

,when we were getting on

 その日の午後、外観がお洒落なわりには薄すぎるコーヒーを出すカフェで、僕は文庫本を開いて待ち合わせをしていた。待っている相手は女性だけれども、平日でスーツを着込んでいる自分がこれからデートなんかではあるはずも無く。取引先に一番近くて目立つから、ここが待ち合わせの指定場所になっただけに過ぎない。
 綺麗に磨いてある大きな窓から射し込む日光は、辺りがすっかり春になったことを告げていた。そういえば課の中でもちらほらお花見の計画が聞こえて来ていたりする。社会ではお花見というのは思った以上に大事な行事らしい。誰も花なんか見ていないのに? 根っこを伸ばす土を踏み固められ、恵みの雨どころか、酒や時には未消化の胃の内容物までかけられて、桜にとっては受難の季節だなぁ、と毎年考える。……なんだかんだで参加している僕に花の苦しみ云々を語る資格は無いのだろうけれど。
 柔らかに注ぐ光を目で追って、窓の外を眺めた。
 セーヌ川にでも架かっているのが似合いそうな橋の傍らに、真っ白な木がひさかたの光を浴びている。桜だ。とても綺麗な、桜の木。

 そして僕は、桜が好きだった彼女を思い出す。

 僕も大学生の頃は花見が好きだった。
 キャンパスの中にあるものすごく大きな枝垂桜の下に陣取って。毎年『桜の下で読む本』なんかを選んだりして。仄かに紅がかった白い花が造ってくれる陰でその本を開いて。
 花見に誘ってくれるのは、いつも彼女で。

 カランカラン。

 桜色の回想はドアチャイムの音でストップした。待ち人来りか、と入り口の方を見ると……
「あれ?」
「え?」
 ミディアムの長さの少しメッシュが入ったようにカラーリングされた髪。ふんわりした白いスカートにGジャン。新しいお客は確かに女性だけれど、僕の先輩はもっと髪が長くて、カチッとしたパンツスーツを着ているはずだ。僕は先輩を待っているのであって、決して。
 決して彼女を待っていたわけじゃないんだ。

「うわ、久しぶり!」
 驚きに目を見開いて彼女がこっちへ来る。なんという偶然なんだろう。彼女のことを思い出している時に、まさか本人が現れるなんて。
「……ああ、久しぶり」
「元気だった?」
「うん」
 自然な動作で彼女は僕の前に座った。まるで待ち合わせの相手が自分であるかのように。一方僕は、さっきのビックリがまだ治まっていなくて固い返事を返すことしか出来ない。
「凄い偶然だねぇ、まさかここで会うとは思わなかった! あ、ダージリン、ストレートで」
 彼女は大学時代と同じ物をまだ好んで飲んでいるみたいだ。変わっていない嗜好に少しだけ驚きが引いてくれた。
「その格好ってことは、今日はお仕事?」
「え、ああ。そう。取引先がここの近くなんだ」
「へぇー。こんな所でお茶してていいの?」
「いや、会社の先輩と待ち合わせ。これからそこへ行くんだよ」
「そうなんだぁ。お疲れ」
 会話がなににも引っかからず転がっていく。彼女と話すのは何時ぶりだろうか。最後の電話は何時だったっけ。手紙を貰ったのが、去年の三月だったかな。でも時間の壁なんて無かったように、僕等は大学時代の気安さで他愛ない話を続ける。
「それより、そっちはどうしたの?」
「私? 私はね、お花見」
彼女とお喋りする時はいつもこうだった。テンポの良い会話と、突拍子もない話題転換。
「お花見?」
「そうだよ」
 確かに彼女の格好は勤め人の服装ではない。卒業時には出版社に就職が決まっていたが、今も彼女がそこで仕事をしているのかどうか僕は知らない。
「いいな、これからどっかの公園にでも行くの?」
「違うよ、お花見っていうのはね……」


I fought in a war and I left my friend behind me……


 店内を包む男の呟くような声。静かな旋律を形作るその声に、ゆるやかに弦楽器が重なっっていく。
「このBGM……」
「……ベルセバだ」
 偶然はこれほどまでに重なる。
 あの頃彼女とよく聴いたベル&セバスチャン。
 二人の会話はぴたりと止まり、耳にスチュワート・マードックの声が浸透していく。
 お互いに何も喋らずに。
 それでも合図しあったかのように同時に窓の外を眺めた。

 窓の向こうには一本の桜の木が立っていた。

 もしかして、これは必然だろうか。
 彼女はあの頃と同じようにダージリンをストレートで飲んでいて。
 僕もあの頃と同じように彼女の傍で文庫本を開いていて。
 二人で同じ桜を眺めて。
 そして。
 僕等の上をベルセバが通りすぎている。

 『兵士からの手紙』は悲しげな余韻を残して最後の音符を高めに響かせた。また新しい音楽が店内に流れるが、それはもう僕の知らない早口のアメリカ英語だった。結局僕等は一曲終わるまで、会話が途絶えたままずっと外の桜を眺めていた。
「そう、お花見って言うのはね」
 彼女は今までの沈黙がなかったかのように切れてしまった言葉を続けた。
「この窓から見える桜を見に来たんだよ。最近のお気に入り桜は“彼女”なの」
 しなやかな指で川向こうの桜を指す。
「彼女か……大学の頃のお気に入りは“彼”って言ってたね。キャンパスにあった、あの枝垂れ桜」
「そう、あれはなんとなくお爺さんっぽい風格があったから“彼”だったの。あの桜は白くて丸くて柔らかそうだから、女の子みたいでしょ?」
「うーん、そうかも。でも桜って両性花だから……」
「細かいツッコミは無し! なんか前もおんなじこと言われた気がする」
「そうだっけ? 言ったような気もするなぁ」
 軽く笑いあって、お互いに言葉を簡単に転がしていく。大学を卒業した後の途切れた時間と、さっきのベルセバに閉じられた沈黙なんて、最初から存在していなかった気がしてくる。彼女と僕は、ずっとあの頃のまま。このカフェで会えたのだって、待ち合わせの約束をしていたからじゃなかったっけ?
 カチャと陶器の触れ合う音がして、彼女のカップから紅茶の最後の一滴が消えた。さてと、と呟いて
「そろそろ行こうかな」
 という彼女の台詞で、過去を飛んでいた僕の頭が現在に降りてきた。
 そう、ただの偶然だった。
 今日の出会いは偶然なんだ。
「……お花見、もういいの?」
「ウン。堪能したよ」
 立ち上がった彼女のスカートがまあるく膨らんだ。桜の樹冠のように白く柔らかく。
「懐かしかった。ベルセバがあって、桜があって」
 ――あの頃みたい――
 彼女の笑顔は、間違いなくそう語っていた。しかし彼女は、自分の分の伝票を持って完全にテーブルから体を離した。

「じゃあね、荘君」
「待っ……!」

 何? と彼女は動きを止めた。
 僕の声も止まった。
『今度また、会おうよ』
 そう言いたかった。
 また以前と同じ二人に。
 でも言えなかった。
 彼女が、あの頃と同じピアノの鳴るような声で、同じ呼び方で僕を呼んだから。
 僕の口は勝手に、想いとは別の言葉を紡いだ。

「言い忘れてた……結婚おめでとう、和美」
「……ありがとう」
 彼女の微笑みは、今まで見たどんな表情よりも可愛らしかった。

 カランカラン、とドアチャイムを鳴らして彼女が消えていく。
 そう、今日のはただの偶然。あの頃と同じ、紅茶と桜とベルセバが揃っていても。
 世の中にごまんとある偶然の悪魔のイタズラなんだ。
 この想いはそれに引きずられた錯覚。 

 もしもあの時、僕らがうまくいっていたままだったら。

 そう願って、偶然を必然に変えたくなった……僕の中の悪魔。




stereotype:、50,000HITおめでとー! のつもりが、すでに60,000越えてやんの……。
桜って辺りでいつ書き始めたかが分かるお話ですが、上げるのに
非常に時間がかかってしまいました。ごめんねごめんね。
リクエストに合わせてBELLE&SEBASTIAN「私の中の悪魔」から
『兵士からの手紙』をBGMにしてみました。

ただでさえ「雪の果て」の続き物なのに……実は両A面仕様で、
もう一話あるっていったら怒るかなぁ? どうでしょ、summerさん。



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