雪の果て

   遠雷は雪を連れてきた。

 三月頭の休日。荘一郎は熱めに入れたコーヒーを手に、ベランダで空を見上げた。白い羽毛が螺旋を描いて降りてくる。
「……こんなことしてたら、風邪引くよなぁ」
昨夜に聞いた遠雷は、雪雲が鳴らしたものだった。朝からずっと雪が降り続いているが、地面についた途端に消えてしまうので積もる様子はない。風もなく、ゆっくりと空から少しずつ零れ落ちてくる幾万もの白い破片。荘一郎は手の中のマグカップを握り締めた。さすがに寒い。
 冷たい手すりにもたれかかって雪を眺める。高台にあるこのアパートの眺めは彼のお気に入りだった。眼下に広がる街並みは淡い灰色の紗がかかって、いつもと違って見える。
 「今シーズン最後の雪なんだろうな……」

 最後の雪は、雪の最期。

 ふと昨日会社の先輩から聞いた言葉がよみがえった。
遠雷を聞きながら今日の雪を予言したのはその先輩だった。

「あぁ、明日はなごり雪か」
「え?なごり雪?」
「いや、明日は雪が降ると思って」
「まさか!三月ですよ」
「だから『なごり雪』だよ。もしくは涅槃雪、雪の果て」
「ユキノハテ?」
「そう、雪の果て。なごり雪の別名だ。昔の人は凄まじい感性だな。最後の雪は雪の最期だもんな。その手のセンスが欲しいよ」
「………?」
「アタシ達は今年もまた雪が降ったと思うだろ?で、また雪のシーズンは終わって、来年になればまた同じ雪が降る。ところが『雪の果て』ってーのは『雪の最期』という意味だ。……今年の雪はこれで死んでしまう。毎年降る雪は全て違う雪なのだ。川の流れは同じでも元の水にあらず……と同じ発想かな」
「方丈記ですか。またなんとも雅やかな……」
「雅やかではないだろう。むしろ刹那的だ。この雪は今年限りだから、全力で愛でようという気迫が伝わってくる言葉だと思わないか?」
「気迫……ですか。はぁ。なんか、雪の儚さが一瞬でぶち壊れる解説ですねぇ」
「…………」
「そういえば、初雪も予言してくれましたね。じゃあ明日ホントに雪ですかね……休みなのになー」
「ま、ゆっくり雪との別れを惜しめばいいさ」

 こんな寒い所で、結局僕は雪との別れを惜しんでいるんだろうか。荘一郎は溜息をついた。三月はあまり好きではない。三月は別れの季節だ。物事が静かに終わりを迎える季節。極端な崩落ではなく、掻き消えるようにいつの間にか別れ、終わってしまう三月。
 手の中のコーヒーはとっくに冷めてしまっていた。部屋の中にも冷気が満ちてきているだろう。彼は唇に微苦笑をのせた。確かに雪との別れを惜しんでいる。なごり雪は盛大な別れだ。季節外れに世界を白くして人々を驚かせる。三月特有の静かに収束する寂しさはない。
 音もなく落ちてゆく牡丹雪を見つめながら、ぬるいコーヒーを一口すすった。入れなおす気分にはならない。自分はまだ部屋の中に戻りたくはないのだ。もう少し、この雪を眺めていたい。
 雪の果て。死に向かう冬空の、最期のパフォーマンス。

 いつの間にか終わってしまったもの。心の中からゆるやかに消えていったもの。しかしそれは、紛れもなく大切なものだった。今年の雪が今年限りであるように、あの時間もあの時限りのものだった。優しく静かに舞い落ちる、この雪のような想い。あんな想いはもう二度と出来ないかもしれない。自然消滅してしまったことに未練があるわけではないが、なんとなく、感傷に浸っている。突然に訪れた『ひとくぎり』はなごり雪に似ていた。

   テーブルの上の葉書が、冷たい空気にかすかに揺れた。


 結婚しました。 −−−−−和美


summerさん、10000ヒットおめでとう。
依頼テーマは「なごり雪」だったけど…。
ごめん。僕の力量こんなもん。
ところでこれが『降る夜』の続編と気付いた人います?
因みに前回の依頼テーマは「手袋」だったとさ。

summerさんのHPへ → GO!



+BACK+ *HOME*