『手もちの時間』


著者:青木 玉 発行:講談社

「手もちの時間」はどのくらいか。

 物書きの家系、とでも言うのでしょうか。それとも、親御さんの全集の出版企画をするうちに、文筆の世界につかまってしまったのでしょうか。作者の青木玉は、幸田露伴の孫、幸田文の娘です。
 私は青木玉の随筆のファンで、ハードカバーはなるべく逃さず買っています。その上の代にはほとんど手を出していない情けなさですが……。(せっかく幸田文全集があるのにも関わらず!)

 随筆家の書いた本ですのでジャンルは勿論エッセイです。日常のふとした情景や、幼い頃の思い出、古き良き風景が綴られています。例えば新しく買ったお椀が瑕もので、シューと泣くような音が立つ。泣かれちゃ弱い、とその後も気を付けて使い続けていると、もう泣かなくなった、とか。例えば南房州の花が盛りと聞いて見に行ったところ、種を採るためにだけ育てられた一重咲きの貧弱な花にたまらない清々しさを感じた、とか。とりたてて珍しい体験でもなく、誰でも持っているような思い出がとても丁寧に描かれています。ほんの1篇読んだだけで、ゆっくりと流れる時間の中に身を置くことが出来て、こわばった神経を柔らかくしてくれます。少し回りくどい言いまわしも見られますが、それがいっそう“古き良き”の色を濃くしている気もします。
 なんと言っても季節感の表わし方が美しく、作者が周囲の世界に向ける目の優しさが感じられます。

 雨に濡れてひときわ色が冴える、あじさいや美女柳のやさしさは無いが、人の目に止まることのない雑木の小さな花も、充分な雨にあらんかぎりの花を咲かせている。

 浴衣を着るのはどうだろう。(中略)白地に紺の組み合わせ、若い人は長くしだれた藤の花、少し落ち着きたいのなら縞や小柄ですっきりと、さっと風を着るつもりで、細身に褄を上げて着れば、この夏、一番の姿ではなかろうか。

 彼女の随筆の本には毎回必ず、強く胸を衝かれてしまう部分があります。今はもうないもの、それでも心の中に残りつづけるもの。ほんの一瞬の暖かなもの、鮮烈なもの。大切に大切に日常を送っている作者の姿勢が伝わってきます。
 一編読んで一時だけ肩の力を抜く。澱んでしまった日常を新しい目で見ることができるかもしれません。中空を渡る風のような本なのです。





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