『INOCCENT』

小説:小池真理子 写真:ハナブサ・リュウ
発行:新潮社

これに代わる幸福が、あったろうか。

 図書館で表紙を見たときにすでに手に取っていました。セピアのトーンがかった石膏像の写真でした。天使のような青年像が美しい女性に口付けをする直前を形にしたもので、心臓を鷲掴みにされた気がする、目が離せなくなる写真でした。

 ジャンルはおそらく恋愛官能小説。
わたしは今も、折にふれ、ひとりの男のことを思い返す。
という書き出しから始まる、玲奈と血のつながらないいとこ、渚の物語です。
 玲奈の一人称で語られるこの話は、あらすじだけ見ればとても通俗的です。玲奈はすでに人妻となってしまった後、渚への熱い想いに目覚め、良人の留守に彼の湖畔の邸で愛欲の時間を過ごす……と、改めて書いてみると本当に昼メロの世界ですね。
 渚は貴族的で野性的で、純粋で淫蕩。一方玲奈は表面上お淑やかで、良識の糸の上を歩いて生きています。しかし二人は互いの中に同じものを感じ、長年の従兄であり親友の関係を踏み越えます。といっても、玲奈にとって渚は永遠の親友、永遠の情人、永遠の片われであり…イノセントなのです。

 性描写がふんだんにありますが、残念ながら“いやらしく”ありません。小池真理子がそれを狙ってたのだとすれば、いやらしくするには二人の関係が上質過ぎるのです。どうしようもなく相手を求める、その手段としてのSEXという感じで。(これが狙いならば、小池真理子は素晴らしい)
 しかし言葉の端々にあらわれるエロティシズムは絶品。

わたしが死んだら、生皮を剥いでちょうだい。
「わたしの皮で本を作ったら、それをハルちゃんの本棚に飾ってくれる?」

という部分で背中に鳥肌が立ちました。美しい官能表現として、1999年のヒットでした。
(ハルちゃんとは、渚の息子で、天才ながらも精神が壊れているので座敷牢に入れられています)

 また、この本の半分は写真で作られています。この写真が強いこと強いこと。グロテスクで、清らかで、写真を見て胸を衝かれます。生身の人間の写真もありますが、彫像を撮ったものがホントに、もう。自分の中の渚の顔や玲奈の顔、湖畔の邸が石の向こうに見えてくるんです。表紙の写真にしても、青年像に頭を抱かれている彫刻は、後姿しか見えていないのに勝手に「女性=玲奈」だと思ってしまえるのです。小説と共に物語性のある写真を楽しめます。
 むしろ、小説と写真が相互に影響し合って、短い本にもかかわらず厚い大きな印象を残す、といった構成です。装丁も編集も綺麗で、完成度の高い一冊です。

 たとえ良識の糸を踏み外そうとも、濃厚な時を、世界から透き通るような無垢な男と過ごした彼女は、まぎれもなくINOCCENTである。
これに代わる幸福が、あったろうか。



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