『花のもの思う春』


著者:白洲正子 発行:平凡社

はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば
花にもの思う春ぞ経にける

 今年の「桜の季節に読む本」でした。毎年決めているわけではないのですが、この本はぜひこの環境で!という本は毎年何冊か出てきます。(例えば“ドグラ・マグラ”は雪降る寒いとき、など)
 読み始めて大変良い気分に浸れたので、しまいには、わざわざ桜の下に陣取って読み進めてしまいました。

 ジャンルは歌論。新古今和歌集をわかりやすく、それでも鋭く深い所まで読み解いています。和歌の本質、ひいては芸とはなにかを歯切れ良く言い表されハッとします。
 2部構成になっており、前半では万葉集から古今集を経て新古今に至るまでの和歌の変り様と、新古今の歌の特徴とそれを生んだ背景などが語られています。後半は新古今の代表的歌人、後鳥羽院・藤原良経・俊成・定家・式子内親王・源三位頼政・藤原家隆・西行の8人を描いています。
 式子内親王や西行など、新古今は私の好きな歌人の時代ですから、日が落ちるまで桜の下で読んでいました。さすがに寒かったですが(笑)。

   言葉で語り得ぬものを言葉に凝縮して表現し、後に残るのはただ表現された世界の印象のみ……新古今の時代に至り、徹底的に洗練され、技巧的になった和歌は「無内容」であり、それこそが「芸」。これは様々な日本文化に秘められた本質のような気がします。またこのことは、小説でも詩でも同じことが言えると思います。練りに練られた言葉は、えてして全てを削ぎ落とした潔いものになるのでしょう。
 『西行花伝』にあった文ですが、和歌というものは浮世のかなた上を飛ぶ鳥なのだというのと同じことを言っているように思いました。海の青にも空の青に染まらず、ただ虚空を行く鳥がすなわち和歌なのでしょう。それは寂しいことでも何でもなく、ただ鳥は飛んでいるだけなのです。
 読んでいる間は面白く、その世界に捕らえられるが、読み終わると全て忘れてしまうようなもの。新古今集の歌人は、今でも数多の作家が目指すその境地を、三十一文字に注ぎ込むことに成功した偉大な「芸」の持ち主達だったのです。

 「無内容の美」という伝統文化の精神世界を、わかりやすく、身近に感じさせてくれる本です。さすが白洲正子!

山深み 春とも知らぬ松の戸に たえだえかかる雪の玉水

  



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