アンドレは果して理想の恋人か?

26.4.2002


*アンドレファンで尚且つアンドレを理想の恋人と思っている方は、気分を害される恐れがあります。精神衛生上、ブラウザのBACKボタンを押すことをお薦めします。

緒言

 『ベルサイユのばら』の主人公はオスカル、アントワネット、フェルゼンの三人という設定なのだが、アンドレのキャラがあまりにも立ちすぎたため、『ベルばら』は歴史に味付けされたアンドレとオスカルのラブロマンスといっても過言ではない。舞台化・アニメ化されて(本筋は変わらないものの)微妙に性格が変わっていても、やはりアンドレのかっこよさは変わらない。読者・視聴者はアンドレとオスカルの恋路に夢中になり、影のようにオスカルを支え、ひたむきな情熱を燃やすアンドレに“理想の恋人像”を見るのである。
 私にとって『ベルばら』は生まれて初めてはまったマンガで、現在の嗜好のベースになっている。となれば即ち私の理想の恋人像はアンドレということになるが、結論から言うと「Non」だ。
 何故私は「アンドレ=理想の恋人論」に異議を唱えるか。
 本稿ではマンガ『ベルばら』(1972年〜1973年連載。以下、「原作」と表記)とアニメ版『ベルばら』(1979年〜1980年放映。以下、「アニメ」と表記)におけるアンドレの違いからそれを検証したい。

検証:原作とアニメの比較

1、アンドレの人物像

 原作にあるオスカルの言葉を借りると、アンドレは「いつも落ち着いていて、不思議なくらいおとなしくて控えめで」それでいて「千の目のようになにもかもを見ていて」「心優しくあたたかい、真に頼るにたる男性」だ。そんな彼は「十何年間もオスカルだけを見、オスカルだけを思って」おり、彼女がフェルゼンに恋をしているときですら、ひたすら傍で支え続けてきたのである。だからといってオスカルが自分の想いに気が付いてくれるのを待つばかりではなく、彼女を押し倒してみせる甲斐性(?)と情熱を持ち合わせている。
 アニメでもそれほど彼の性格設定は変わっていない。プラスαとして、ただ単純にオスカルを補佐するだけではなく、革命思想の勉強会に参加し、活動に勧誘される程自分の確固たる思想を持っている(その世情調査も結局はオスカルのためであるらしいが)。原作ではオスカルのフォロー一辺倒だったアンドレが、アニメでは彼女を革命へと導いていく風に描かれていることが大きな違いであるだろう。

 原作・アニメに共通するアンドレの性格 :冷静沈着で観察力が鋭いながらも心優しく、全力でオスカルを支え、時折激しい愛情も見せる。

   原作・アニメ間の違い :原作では常にオスカルに従い、全てオスカルを優先する。アニメでも基本的にはオスカルに従っているが、ややオスカルから離れ自分の世界を持っている。

2、アンドレの行動

 顕著な違いが見られるのは、「青いレモン」との呼び名も高い強姦未遂事件以降であろう。
 原作では、事件以降もアンドレはオスカルの従僕として彼女に付いて衛兵隊に特別入隊する(オスカルとは共に行動する状態)。オスカルも彼の行動を非難せず、自分に想いを寄せる者として認識するようにはなったが、今までの親友の関係を続ける。
 アニメでは失恋した段階でオスカルは「私は男として生きる」と決意し、アンドレに「もうついてくるな」と命令する。強姦未遂については「怒ってはいないが記憶にも留めない!」と散々である。アンドレも暫く飲んだくれてやさぐれるが、オスカルの「自分の人生を生きろ」の言葉に従って、勝手に衛兵隊に入隊する(オスカルとは完全別行動)。
 原作では「オスカルのためだけに存在し、行動するアンドレ」であるが、アニメでは「オスカルを守るため、個人の意思で行動するアンドレ」に変わっている。

3、オスカルに与えた影響

 原作のアンドレは常にオスカルをサポートし、彼女が思い通りに動けるように手配している。ゆえに、彼女の行動に大きな影響を与えることはそれほどない。むしろ彼女の精神安定剤的作用を持っている。彼への愛を確信する以前から「兄弟以上に近い、魂の半身」とオスカルは認識している。
 アニメのアンドレも当然オスカルを支えているが、原作のような信頼関係は薄いように見える。オスカルはアンドレを黒い騎士ではないかと疑ったりもする。
 原作とアニメの最大の違いはオスカルが革命に走る理由である。
 原作は、自ら身分制度に疑問を感じたオスカルが、平民との繋がりを持って「自分の意思」で革命に参加する。アンドレはオスカルが民衆側につくだろうと思ってはいるが、彼女に働きかけることは決してしない。
 アニメのオスカルは、なんと「私の愛する人が平民で、彼についていくために私は革命に参加する」と言っているのだ。

 私は二人の関係の違いを、アンドレ亡き後のオスカルを見て強く感じる。アンドレの死の翌日、オスカル率いるフランス衛兵隊はバスティーユ牢獄を攻撃する。原作では出発の前にオスカルが「アンドレ行くぞ! 用意はいいか」と言って思わず“振りかえる”。これはアンドレが常に後ろから彼女を支えていたことを示している。アニメでは、アンドレの死にショックを受けてパリをさ迷っていたオスカルの“前に”幻のアンドレが現れ、「こんな所で何をしている? さあ、バスティーユへ行こう」と彼女を立ち上がらせる。アニメでのアンドレはオスカルを引っ張っていく役割を果しているのだ。

考察

・恋人は読者の理想像

 少女マンガのヒロインは嘘みたいにもてる。未だ私は二人以上の男性から口説かれない連載物の少女マンガ主人公を見たことがない。男装しているオスカルも当然例外ではなく、フェルゼンへの片想いは実らないものの、ジェローデルに結婚を申し込まれたり、アランに無理矢理キスされたりと、アンドレをやきもきさせる。
 ヒロインがもてるのは、彼女が読者少女達の分身であり、憧れを投影している存在であるからだ。読者は主人公の心情を追うことで、彼女に自らを投影する。ヒロインの片想いを読んで「そうそう、切ないのよね」と片想いに悩む読者は共感し、恋人に甘えるヒロインを見て「そうなのよ、つい甘えちゃうのよ」と彼氏持ちの読者は自分を振り返る。そして様々なタイプの男性に口説かれる魅力的なヒロインを「羨ましい。私もこんな人間になってみたいわ」と憧れるのである(実際現実世界でいろんな人から口説かれたらうざったいだけだろうが)。
 従って、主人公の恋人役は読者にとって理想的な恋人でなければならない。「なんでよりによってこんな男を」というような相手だったら、読者が離れていってしまい打ち切りの危機に瀕してしまう。当時の読者にとって“アンドレのような”男性が理想像だったのだ。

・製作年の違いから生じる「理想」の変化

 ここでポイントとなるのは“当時の読者にとって”理想の恋人だった、という点であろう。原作は1972年から連載開始されており、アニメの方は連載が終わってからおよそ6年後、1979年から放映開始されている。70年代と80年代といえるほどの開きがあるのだ。
 1970年代は女性の立場が大きく変化した年であった。60年代の高度経済成長によって都市化が進み、サラリーマンの家庭が増えた。「サラリーマンの妻=主婦」の図式が成り立っていたが、70年代に入り、女性の高学歴化、都市の情報化によって社会全体の仕事の幅が広がり、女性が選択できる仕事も広がった。そしてなにより家電の普及により家事の省力化が進み、それまで主婦だったサラリーマンの妻が仕事を持てるだけの時間的余裕が生まれたのである。
 原作が連載されていた1970年代初めは、丁度女性の社会進出が注目され始めた年でもある。しかし、女が仕事を持つことはまだ理解されない部分が多く、社会進出した女性に対して厳しい風潮もあった。そのような折に登場したヒロインが“働く女性”オスカルである。彼女は男性として育てられ、男と同じ仕事に就き「女の分際で」と罵られながらも軍隊を纏めていく。社会に出て格闘する、仕事を持つ当時の女性が理想とした男性は“徹底的に自分をバックアップしてくれる”アンドレだった。

 一方アニメが放映開始されたのは1970年代終わりになってからである。70年代前半に社会進出を勝ち取った女性達は、結婚し、子供を産んだ。70年代半ばは、日本独特の女性就業形態である「M字カーブ」全盛の時代でもある。結婚・子育てのために女は一旦仕事を辞め、子育て終了後に再び仕事をはじめる。『義務教育諸学校の女子教職員及び医療施設、社会福祉施設等の看護婦・保母等の育児休業法』が制定されたのは1975年である。アニメ放映時は、原作連載時よりも社会に出る女性が異質でなくなっていた。そして彼女達は結婚を機に退職する、という認識が定着した時代でもある。社会進出するために一生懸命だった女性が愛する人を得た後一休みする時期だったのだ。かくして理想像は変化する。“基本的には自分を支えてくれるが、同時にきちんと自分を引っ張っていってくれる”男性が必要になってきたのである。ゆえに、アニメのオスカルはアンドレに告白した後、まるで人格が変わったかのように「あなたについていくわ」状態になってしまうのだ。
 即ち、原作とアニメでは製作年が違うため、ターゲットとなる視聴者の理想像が変化しており、アンドレは(と同時にオスカルも)異なった人物像を持つことになったと推察される。
(ただし、アニメは製作者が男性であり、男性の予想する「当時の女性が求めているであろう理想像」であるとも言えよう)

「理想の恋人」とは?

 理想像の変化に合わせて変わってしまったアンドレ。確かに“徹底的に自分を支えてくれる男性”も“それでもいざとなったら自分を引っ張ってくれる男性”も得難いものであるだろう。しかし、その理想的な資質というのは、当時の読者・視聴者の「要求」によって作られたものなのだ。
 2001年8月号の『婦人公論』で原作者の池田理代子はこう述べている。

 私の友達が「若い頃はアンドレの方が魅力的だったけれど、一緒になった後を考えてみると、平民の彼はオスカルと教養も価値観も違うだろうから結局上手くいかなくなってくると思うのよね。だから最近はフェルゼンの方が好いと感じるの」と言っていました。年齢によって好みの男性って変わってくるんですよね。

 私はこれが「年齢による好みの変化」とは思えない。アンドレよりもフェルゼンが好き、に変わったのは、その友人嬢の置かれている状況が変わってきたからだ。だからこそ自分の状況を反映して作られる「要求」が変わったのである。女性が仕事を持つのが当たり前になってきた社会で、男性は彼女を支える必要がなくなってきた。その代わり“対等のパートナー”として“共にいて楽しい時間を過ごせる”ことを求められているのではないだろうか?
  「要求」によって変容する「理想」。
 となれば「理想の男」というのは即ち「都合のいい男」ということに他ならない。

 つまりアンドレは「都合のいい男」だったのである!

 そこで最初の「アンドレ=理想の恋人」への異議に戻る。何故私にとってアンドレは理想の恋人ではないか? それは現在の私が要求していないからだ。現在の私にとってアンドレは都合のいい男ではないのである。

結論

 アンドレのみが都合のいい男、というだけではない。少女漫画において、恋人役となる男性そのものが読者の要求によって形作られる「理想的な」キャラクターなのだ。
「理想」という言葉は、高みにあって美しく感じる。自分が思い描く最上の形が「理想」であるだろう。ところが「理想」というのは往々にして「都合がいい」ということではないだろうか。
 人間は、飽くなき欲求と自己中心的なワガママを「理想」と美しく言い換えているだけなのかもしれない。




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