ハッピーエンドの装置としての『ガラスの馬車』

1.3.2002


緒言

 宝塚版『ベルサイユのばら』は原作の筋をなぞりながらも、様々に脚色・変更されている。舞台美術的に、また上演時間という制約などのために原作の改変は当然やむをえないものである。名シーンも迷シーンもふんだんに織り込まれている宝塚版であるため、賛否両論数多くあるここと思われる。特に“アンドレとオスカル編”におけるラストシーン、ガラスの馬車で二人は天国へ……は賛否両極端に分かれることと推察する。
 原作好きの私には、「ガラスの馬車」のシーンは強い違和感が拭えないものである。しかしあのシーンは違和感を感じると同時に、宝塚版随一の名シーンとも思うのだ。
 本稿では、原作版と宝塚版のオスカルとアンドレの最期のシーンを比較することで、何故私が違和感のある「ガラスの馬車」のシーンを名シーンと思ってしまうかを解体していきたい。

比較

 原作版では当然死後の二人については全く触れられていない。アンドレは、自分の死後もオスカルへの想いが彼女へ届くようにと“願い”ながら死んでゆく。オスカルはアンドレと同じ場所へ行くと“信じて”死んでゆく。宗教と信仰が根付いている国と時代であるから、天国(死後の世界)の存在を疑っていないのだろうが、結局は二人とも希望的観測の域を出ていない。
 一方宝塚版は完全に死後の世界の二人を描いている。場面の名前も「天国」と付けられているので、これはもう間違いない。決して死ぬ直前に見たオスカルの夢ではないのだ。

1;原作のリアリズム
 少女漫画の典型としてよく取り上げられる『ベルサイユのばら』であるが、典型であるのはあくまでも“画面”ではないだろうか。バックに花を背負っていたり、眼の中に星が光っていたり、豪華な衣装を身に纏った美形の登場人物達であったり。ところがストーリー自体は極めて現実的で、夢や甘い憧れとはかけ離れている。
 原作は徹底したリアリズムを貫いている。
 真に愛する人を得たオスカルが、貴族世界の柵を断ち切ってアンドレと結婚するという明るい未来は、アンドレ自身の死によって脆くも崩れ去る。翌日のバスティーユでオスカルが幸運にも――あえて幸運と言おう――戦死できたため、彼を失った悲しみの期間が短くて済んだだけの事だ。
 原作は、“愛する者の突然の死”という厳しい現実をヒロインに突き付け、また彼女自身の死をも読者にぶつける。そして、二人は天国で永遠に幸せでした、という描写は欠片も出さず、淡々と彼らの死後も物語は続く。
 二人が天国で再会できるというのはオスカルの、もしくは読者の“希望”にすぎない。

2;宝塚のロマンチシズム
 翻って、宝塚の舞台は「清く、正しく、美しく」の言葉からも判るように現実から乖離したロマンチシズムを表現している。現実は清くも正しくも美しくもない(そういうものも勿論あるけれど)。
 天国、または銀河の向こうからガラスの馬車が迎えに来ることは現実では起こりえない。死後の世界があるかどうかも、現実に生きている間は――死んでいないから――知ることは出来ないし、そこで先に死んだ者と再会できるかも保証の限りでは無い。
 夢物語を描く、という部分では宝塚の方が余程少女漫画的であるだろう。 

考察

 アンドレとオスカルの身分を超えた関係は夢物語的ではないか? 否。ここが原作の非情な点である。

 アンドレとオスカルはハッピーエンドではないからだ。

「人生は目を瞑って地雷原を突っ走るようなもの」とは、推理作家有栖川有栖の言葉だが、全くその通り、現実世界とはリスキーなもので、一瞬先は常に闇だ。少女漫画が夢物語であるためには、現実にはありふれている悲劇を否定し、ハッピーエンドにならなければならない。例え二人が自分の人生を納得し、悔いなく最期を迎えたとしても、“死にオチ”は第三者(二人以外の登場人物及び読者)がハッピーエンドとして受け取れるものではない。

 そこで「ガラスの馬車」が登場するのではないだろうか。
 夢物語を紡ぐ宝塚としては、清く正しい二人は美しいハッピーエンドとなる必要がある。不倫関係であるフェルゼンとアントワネットとは違うのだから。
「ガラスの馬車」のシーンによって“二人は永遠に幸せに暮らしました”という結末を、第三者(この場合は主に観客)に呈する。宝塚の用意した「ガラスの馬車」は、現実的な原作では決して読めなかった読者の希望を叶えるものなのだ。
 即ち「ガラスの馬車」とは、悲劇である『ベルサイユのばら』をハッピーエンドとして扱うための装置に他ならない。

 これこそが原作好きの私が感じた違和感の正体だ。
 リアリズムを突き通した原作では「ガラスの馬車」はありえない。
 宝塚の『ベルばら』はディティールの改変こそあれ、大筋は原作から離れず、原作ダイジェスト版のように舞台は進んでいく。従って、ラストで突然“隣の南ちゃん”が“白馬の王子様”のように現れる漫画的・夢物語的ハッピーエンドを突き付けられて困惑するのだ。
 しかし、言い換えてみればこのシーンは唯一宝塚のオリジナルな場面であろう。「ガラスの馬車」という力技でもって、幸せな結末を観客に見せつける。清らかな二人の美しき愛、という夢を描く宝塚ならではのシーンである。“天国”1場によって、原作をなぞっていた舞台は宝塚のオリジナリティあるものに変身するのだ。
 「ガラスの馬車」は『ヅカばら』を確立させたシーンなのだ。

結論

 原作を離れ、宝塚自身が作品を噛み砕き昇華(消化?)させた「ガラスの馬車」は、新しく“宝塚版”という『ベルサイユのばら』を生み出した。
 原作では考えられないシーンながらも、そこには宝塚のアイデンティティが詰め込まれている。
 読者及び観客が望んだ、ハッピーエンドの明確な形を示す「ガラスの馬車」は宝塚的であるがゆえに“宝塚版”随一の名シーンと言えるのではないだろうか。


  


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