緒言
「とどのつまり、人間の魂とは傷つくように出来ているというわけだ……!」
第1部校長先生の死後、ダーヴィトが独白のようにユリウスに語った言葉は、第4部でユリウスが川に落とされた後にも登場する。ダーヴィトのこの台詞は、ユリウスが狂気に囚われてしまった過程を説明するだけでなく、作品中で人間の愛憎劇を繰り広げた登場人物達全てに当てはまる。更に、現実世界での人間関係に悩む読者にすら一定の道筋を指し示し、まさに『オルフェウスの窓』のテーマといえる言葉だろう。
しかし、本当に人間に相互理解は不可能であり、人の魂は傷つきやすいのだろうか?
本論では、ダーヴィトの論理の導き方に矛盾があるか否かを、集合の概念を用いて確かめてみたい。
全文引用
人間と人間とのふれあいというものは あるいは一種の幻想なのかもしれない
究極ひとつの魂が自分のものでないもうひとつの魂を完全に理解するなどということはあり得ないのだから―――(1)
幻滅が苛酷ならはじめから望まねばよい―――(2)
傷つくのがつらいなら はじめから失いたくない物など持たねばよい
愛さねばよい 望まねばよい 感じねばよい
そうだ 今この瞬間の自分の生をさえも期待しなければよいのだ
けれど……そうしてゆくえを失った魂は やがて自分の内なる狂気の世界へしか解き放たれ得ない―――(3)
魂を狂気の中へ解き放たずにいるためには たとえ失望し傷つくとわかっていても 人は愛し希望し感動せずにはいられない―――(4)
とどのつまり人間の魂というやつは傷つくようにできているというわけだ……!―――(5)
簡易化及び記号化
まずこの文章を簡易化する。
[簡易化]
1、人間は相互理解ができない 相互理解ができないならば幻滅する
2、幻滅しないためには望まない・期待しないことが必要である
3、何も望まないと人は狂気に陥る
4、狂わないためには(傷つくとわかっていても)望まなければならない
5、したがって人は(幻滅するかまたは狂うので)必ず傷つくといえる
更に上記の1〜5に出てくる条件を記号化する。
[記号化]
人間である=M 相互理解が可能=A 傷つく=B 望む=C 狂う=D
とする。そこで1〜5の文章を記号化する。(記号の前に“〜”が付く場合、その条件の逆であることを示す)
1、M→〜A(人間ならば相互理解が不可能) 〜A→B(相互理解不可能ならば傷つく)
2、〜B→〜C(傷つかないならば望まない)
3、〜C→D(望まないならば狂う)
4、〜D→C(狂わないならば望む)・・・これは3の対偶である
5、M→B∪D(人ならば傷つくかまたは狂う)
証明
[式の組み立て]
まず2、3の式を組み立てる。
〜B→〜C 且つ 〜C→D(傷つかないならば望まない 望まないなら狂う)
即ち〜B→D(傷つかないならば狂う)と言うことができる。
次に1、5の式について考える。
1、M→〜A(人間ならば相互理解が不可能)且つ 〜A→B(相互理解不可能ならば傷つく)
条件1によりM→Bであると言える。
5、M→B∪D(人ならば傷つくかまたは狂う)
すでにM→Bと〜B→Dが成り立っており、条件5M→B∪Dという式はM→Bさえ成立していれば成り立つ式である(“または”という言葉はどちらか一方の条件が成立していれば問題がない)。
条件1〜5をベン図で表すと下記のようになる。
AとD、MとCが交わっていない可能性も考えられるが(なぜならばAとD、MとCの関係式は示されていないから)、この図は条件1〜5を満たすベン図のうち、あり得る可能性の一つのものである。
条件5の「人は(幻滅するかまたは狂うので)必ず傷つくといえる」という文章から、MとDが互いに疎であるのはおかしく感じる。しかし、全文引用の段落からわかるとおり、ダーヴィトの台詞の中に出てくる“傷つく”には2種類の意味がある。
(5)の“傷つく”は『ダメージを受ける』という意味の“傷つく”であるため、(2)〜(4)に出てくる、『幻滅する』という意味の“傷つく”=Bとは別である。更に加えて言うならば、狂う=Dであることは『ダメージを受ける』という意味の“傷つく”に含まれる。ゆえにMとDがベン図上で交わっていなくても問題はない。
したがって、以上の証明より、ダーヴィトの論理展開には矛盾がないと言える。
考察
ダーヴィトの論理展開には矛盾がない。とすればやはり、人は相互理解が不可能で傷つくのが分かっていても、望み、求め、そして打ちのめされる存在なのだ。ただし論理的に成り立つのとその命題が真であるかはまた別問題だ。
ここで第4部、フランクフルトへ向かう車中のユリウスの言葉を引用しよう。
ぼくは人間でありたいんだ 知性と……勇気と精神力で現実というやつを組みしだいていける人間でありたいんだ
ユリウスの精神は、クラウスと安息を求めながらもロシアで散々傷付き、変調をきたしてしまった。しかし傷付き狂いながらも彼女は、それを受け入れて戦う意思を見せている。それは何故か。
証明の段落における条件5の対偶、〜B∩〜D→〜M=傷つかず狂わないならば人間ではない。
これが彼女を動かした真相ではないかと私は思う。人であるからこそ傷つく、傷つきたくなくて内に篭ると狂う、しかしそれは全て人であるからだ。傷つきも狂いもしない精神の持ち主はすでに人ではない。彼女は、その言葉通り「人間であるために」戦うのだ。
『オルフェウスの窓』の登場人物達には、全てこのダーヴィトの独白が当てはまるのではないだろうか。恋は人を求め、相手を理解しようと努めるものだ。恋に限らず、人間関係は全て相互理解のための努力だ。そして登場人物達は相手との関係に悩み、傷つく。傷つくと分かっていても人は愛し希望し感動し、相互理解の努力を止めない……人間であるために。
ダーヴィトの言葉は、第1部ではユリウスだけに伝えられたものだ。しかし第4部最後でもう一度出てくるのは、作品を読み通した読者が全ての登場人物達を思い起こし、『オルフェウスの窓』が描いた人間の悲しい性を考えるためではないだろうか?
結論
「オルフェウスの窓」という作品は、登場人物達の愛憎劇を通して、ダーヴィトの言葉の中身が“真”である事を帰納的に裏付けている。尚且つ、ダーヴィトの言葉が真であるならば、論理的に正しく導かれた結論も真である。
人間の魂は傷つきやすい。しかし人間であるためには傷つき、その現実を組みしだいていかなければならないのだ。