グラジオラス


 ―― あら、私は正直者よ。嘘はつかないわ。
 ―― ここで僕とこんなことをしてるのに?
 ―― 嘘じゃないわ。黙ってるだけ。……じゃ、また水曜のレッスンでね。センセ


 淑子のドアをあける手が一瞬凍りついた。鍵が開いている。
 いやだ。あの人ったらこんな早く帰ってきてるなんて。
 花束を抱えたまま、首を捩じってジャケットの襟の匂いをかいでみた。石鹸の匂いはしていない。耳の後ろにつけたジバンシィの香水が仄かに肩口に漂っているだけだ。一呼吸、ドアを正面に睨みつけてから、いつも通りの速度でドアノブを回した。
「ただいまぁ」
 ハンドバックと花束を上がり框に置いて、パンプスを脱ぐ。すぐに下駄箱には仕舞わずに、そのまま三和土にだしておく。いくら一番上等のエナメルの靴といっても、すぐに仕舞うと余計に傷んでしまう。まず汗を飛ばしておいてから軽く拭いて仕舞うことにしている。これもいつも通り。
 茶の間の方からテレビの電波音がする。午前中に綺麗に磨いた板張りの廊下を滑るように歩いていく。
「お帰りなさい、今日はやけに早かったのね」
「ああ、そっちこそお帰り」
 テレビに目を向けたまま清二が抑揚のない声で答えた。壁にかかった鏡に映る自分を眼の端で捕らえて、淑子は心の奥で安心する。少しあぶら浮きした額、輪郭だけ残って微妙に剥げている口紅。大丈夫、全ていつも通りだ。

 もう十何年も昔になるが、新婚当初清二に「君は嘘がつけない人だな」と言われたことがある。淑子が嘘をつくときは必ず頬に手を当てるから、すぐわかってしまうのだそうだ。純粋培養のお嬢様。家庭の中にしかいない世間知らずな女。清二の頭の中ではいまだに淑子はそう捉えられているのだろうか。
 確かに私は嘘が下手だけど……純粋培養は男の方だわ。
 清二に特にこれといった癖はないが、淑子はきちんと彼の嘘がわかる。淑子は嘘をつくのは嫌いだが、女は男よりも嘘が巧みだろうと思っている。見慣れないアクセサリーに興味を持って男が尋ねた場合、「○×デパートのバーゲンで買ったの」という答えの中に、平気で3つ以上の嘘を隠せるのが女なのだ。

 茶の間を通り抜け、台所のテーブルに5年以上前に清二には内緒で買ったディオールのハンドバックを置く。
 そうそう、これを買ったことはばれなかった。
 流しに立って花束の包み紙を破きながら、淑子はクリスタルの大きな花瓶をどこへ仕舞ったかを考える。
 大きすぎて棚には入らなかったのよね。物置だったかしら。
 洗い桶の中に水を張って、買ってきたグラジオラスの束を投げ入れる。ステンレスの調理台に、真っ赤な花弁の影が映った。階段の下の物置から花瓶を取ってくると、清二が冷蔵庫から麦茶の瓶を取り出している最中だった。
「赤坂ミナトホテル」
 清二が呟いた。一瞬の澱みもなく足を進め、自然な仕草で花瓶をシンクの中に置いて、引出しからキッチンバサミを取り出しながらも、淑子の胃袋はぎゅうと縮んでいた。清二が呟いたのは、さっきまで充といたホテルの名前だった。
「……に行ってたのか?」
「え?」
 もしかして、何か見られたのかしら。だから今日はこんなに早く?
 清二は麦茶をなみなみと注いでまた茶の間へ戻り、テレビの前に難儀そうに腰を下ろした。
「何しに行ってたんだ?」
 淑子はたわしで花瓶の中を力一杯磨く。水を使っているので清二の声は殆ど聞こえなかったが、何を言っているかは聞かなくても分かる。しかし、それでもあえて、淑子は
「なあに。よく聞こえない」
 と聞き返した。
「いや、それ」
 それ、と指示語のみの答え。いや、質問である。
 なんて答えたらいいの。
 淑子は濡れた手で頬を触りかけたが、瞬間、腕の動きを止めた。ここで不審な行動を取ってはいけない。ましてや何かを取り繕うための嘘なんて、絶対に避けるべきだ。淑子は執拗に花瓶を磨きながら考える。
 私はいつも通りだったはずだわ。赤坂に行く、と今朝言ったけれど。
 水を止めて、花瓶の外側を台拭きで拭いてから調理台の上に置いた。
 どうしてホテルの名前まで……あ!
 花瓶の下に、答えはあった。グラジオラスを包んでいた紙に、赤坂ミナトホテルのマークがちゃんと印刷されている。ラッピングではなく、粗雑な紙に包んでもらっただけだったため、うっかり見落としていたのだ。
 嘘はダメ。
 淑子は自分に強く言い聞かせる。嘘は嫌いなのだ。胃はまだ竦んでいるが、そんなそぶりは全く見せずに対応しなければならない。
 大丈夫。あのバックもばれなかったんだもの。
 黙っているのは、嘘ではないのだ。淑子は水桶の中で太い茎を斜めに切っていく。鋏の音に合わせて、淑子は煩悶を断ち切った。

「これ?二束500円で売っていたのよ。赤坂のホテルで」
 スーパーで卵が安かったの、と言うのと同じように淑子は答える。
「だから、そこに何しに行ったんだ?」
「やだ、今朝言ったじゃない。社交ダンスの人とお昼のバイキングよ」
間違いなく、充は社交ダンスの人である。なにしろ淑子の通う社交ダンス教室の先生なのだから。花瓶に水を張りながら、淑子はつい2時間ほど前に触れた充の肌を思い出して唇を歪ませてしまう。勿論流し台に向かっているから、背後の清二にその顔は見えていない。
「ああ、そうだったな。ご婦人方は亭主のいぬまに豪勢なことだ」
「結構安いのよ、2000円食べ放題。それに社交ダンスだもの、男の人だっていましたよ」
「へえ」
水切りをした花を扇形に活けて、淑子は振り向いた。
「そうねぇ……男女半々ってところね」
“密会”の花言葉を持つ、燃えるような赤い花を肩越しに微笑んだ。

 頬に手を当てていないのも、いつも通り。




1800HITありがとうなのに………また不倫モノか俺は。
依頼テーマは「欺く」もしくは「隠れる」でした。
文中にあるように、グラジオラスの花言葉は「密会」。
BGMはsummer様の好きなマドンナの“ray of light”より
「DROWNED WORLD/SUBSUTITUTE FOR LOVE」。

キリ番ゲッターのsummer様に捧ぐ!

summer様のHPへ →GO!



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