蒼天俄かにかき雲つたかと思うと、びかびかと稲光が空に亀裂を作つた。
 一瞬の後に耳をつんざく雷太鼓が鳴り響き、それと同時に滑らかな洋琴の旋律を流していたラヂヲがぴたりと歌いやめてしまつた。

 なんだ、停電ではないか。これでは書物も読めぬ。

 男は分厚い独逸語の本を閉じた。何、もとより読んではおらぬのだ。男の蔵書の中で最も頻繁に利用されているのがこの本であるが、専ら読書に供されている物では無い。枕だ。
 雷は暗雲を呼んだらしく、それこそ灯りが消えたやうに窓の外は暗くなつた。やれやれ、と男は難解なる異国語の書物をいつもの用途にしやうとしたが、ついとその手を止めた。

 さうだ、このやうに退屈な折は地底国を覗くのが良い。

 男は押入れの角の崩れかけた壁に這いずつていき、床との境目に開いた小さな孔に目を押し当てた。この下宿に越してきた時に、なんの気なしにその崩れを覗いてみたらば、たまたま地底の国が見えたのである。それ以来度々男は地下を窃視し、密かな喜びに浸つてゐるのである。小人どもの頭上から、彼らのあずかり知らぬ所でその生活を眺めるのは、神にでもなつた気分なのだ。閑居して不善をなす輩は、まさにこの男のやうな者どもを指すのであらう。

 おお、ゐるゐる。 

 喜色満面で男は孔に右目を当てた。地底の小人どもは、突然雲行きが怪しくなつた、やれ近日は晴天が少ないですな、などとキイキイ鼠のやうな声で喋つてゐる。男は更に唇の端を吊り上げた。 

 俺がその気になれば、お前達の国を常夜にしておくことだって出来るのだぞ。

 頻繁に覗き見をしていて気が付いた事だ。男が孔を塞いでいる間は、小人の世界は必ず曇りなのだ。つまり地底の住人にしてみれば、男の部屋にある小さな小さな孔こそが太陽なのだ。男の部屋が明るくなれば、地下の都も朝になり、男が電燈を消せば、即座に彼の国には夜が訪れる。昼にするも夜にするも自分の胸先三寸、となれば、ますます男の昏い支配欲は増長してゆくのである。さりながら、小人の世界を夜にし続けるためにはその孔を塞がなければならぬため、男の大切な覗き穴がなくなってしまうのだ。アンビバレンツなる悩みを抱えたものだ、と男は常々くだらぬ溜息を吐いていた。

 ……まてよ。逆に太陽を大きくしてやることも出来るぞ。

 考えるにしても碌なことを考えない男である。文机から小刀を取り出すと、節穴にごりごりと当て始めた。かうすれば覗きこむ時ももう少し見通しが良くなる、今頃空が落ちてきたと地下では大騒ぎだらう、と男は口角からこらえきれぬ息を零しながら作業を続けた。
 窓の外ではまだ稲光が走つている。押入れの角に蹲った男は一向気になつていない様子。がりがりごりごり小人の太陽を大きくしてゆく。

 さて、奴らはいかがなものかな? おお、格段によく見える。

 目を当ててみるとより明るくなった地下の都が眼下に広がっている。金切り声を上げて、小人達が上へ下への大騒ぎの真つ最中だ。
「天が落ちてくるとはこのことですな!」
「あなおそろしやおそろしや」
「くわばらくわばら」
 男は引つくり返つて大笑いした。調子ついて再び小刀を孔に刺し込んだ。がりがりごりごりざりざり。

 や、これはいかん。

 刃の角度が悪かつたのか穴から亀裂が延びてしまつた。突如細長い太陽が現れたか、はたまた怪奇なるプロミネンスか、小人にしてみれば天変地異。男は慌てて穴を覗いた。
「いやさ! ひと際凄い稲光ですな」

 ……なんだと? 稲光?
 それではこの亀裂すらも、地底国では自然なのか?

 小人には全く自らの存在を感知されていない、男は途端に阿呆になつたやうな気分に陥つた。太陽が大きくしやうが、空を崩そうが、神である自分の仕業であると気付く小人は一人としていない。
 なんと虚しいことか。
 男は嘆息して削り取った壁をつまみあげた。薄灰色に汚れた押入れの壁は、それでも現実から彼を解き放つて呉れる密やかな楽しみだつたのだ。何気なく男は壁の破片を裏返した。

 ……青い。

 破片の裏側はまごうかたなき空色であった。
 男の背後で雷光が閃いた。稲妻は天に亀裂を入れ、ごりごりと鈍い音が轟き渡つた。青天の霹靂。まるで空が削り取られてゆくような野外の嵐。まるで雲が割れ、、罅が入つたやうな……。




俺のゐる世界は、もしや誰かの押入れの下ではないのだらうか?






2828HIT感謝!でございます。バボちゃん、ありがとー!
依頼テーマは「地下都市」だったんですが、なんか変な話を
思いついちまいまして、そのまま書いたらやっぱり変でした。

貰ってくれるかなぁ(ドキドキ)。キリ番ゲッターのバボちゃんに捧ぐ!



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