Time to say goodbye


 その張り紙に彼女が目を止めたのは、全くの偶然だった。
 いつも自転車で通る道を、今日は珍しく天気が良かったから歩いてみただけだったのだ。なだらかな下り坂の途中にあるその店が喫茶店であるということも、今日の今日まで気がついていなかった。
「こんな店あったんだぁ」
庇にぶら下がっている木製の看板には「きっさアミーゴ」の白い文字。看板と同じ、シェリー樽のような深い色合いの木の扉には、繊細なステンドグラスが嵌め込まれていた。梅雨の晴れ間の日差しを反射して煌くのではなく、彫金でさえも光を抱きしめるような、穏やかな輝きを放つ細工のガラスに彼女は暫く見惚れた。それからもう一度、扉に画鋲で止めてある小さな張り紙を読むと、丁寧な万年筆の文字で「アルバイト募集」と間違いなく書いてある。
「フツー……こういうのってもっと派手に書くわよネ」
例えば黄色の厚紙に黒々とマジックの太字で、とか。これではバイトが欲しいのかいらないのか、雇い主の熱意が伝わってこないではないか。それなのに彼女が真鍮のノブを掴んで扉を押してしまったのは、ステンドグラスの真ん中にあった天使の羽根に引っ張られたに違いない。

 カランカラン、と鐘が鳴った店内を見まわすと……客は一人も入っていない。それどころか、カウンターの中で作業服を着た男性が棚の背板にドリルで穴をあけようとしている。木屑の匂いと金属のこすれる匂いと、耳の骨をひどく震わせる大音響が途端に部屋を満たした。
 数秒後音がやみ、男性はおそらく満足げにうなずいた(何しろ後姿なので表情は見えないのだ)。
「あ、あのー、すみません。もしかして、ここまだ開店してないんですか?」
もしかしていなくても開店してないだろう。この状態では。
「あれ、お客さん?」
振り向いた男性は鼻の頭に機械油が付いていた。彼は、驚きの表情をすぐに笑顔に変換し、いらっしゃいませと言った。何故かどこかで見覚えがある笑顔だった。
「いえ、外のアルバイト募集の張り紙を見て」
「やあ、バイト希望の人ですかぁ!じゃあ、ちょっとこの紙に書きこんでもらえませんか?」
なんと作業着の彼がこの店のマスターらしい。
「えっと、このお店は……」
「あぁ、ごめんなさい、もうちょっとで開店できるんだけどね、何しろ二年ぶりだし。内装もイロイロ凝ろうと思ってね」
再びどこかで見たような笑顔を浮かべてカウンターから出てきた彼は、窓辺に寄せてあるテーブルと椅子を直して、すぐさま奥へ引っ込んでいってしまった。
 とりあえずそのテーブルと椅子に座って、名前や年齢などなどを書いていくうちに、彼女はふと思い当たった。雲間から射す、天国への道標のような淡い光。水の感触がする清々しい光。彼の笑顔は今日の日光に似ているのだ。なんだかおかしな連想をしてしまったとこめかみに指をあてていると、テーブルの端に薄緑色のクリスタルタンブラーが置かれた。
「お茶をいれるにはちょっと時間がかかるから、とりあえずお水ですが……」
氷を浮かべた水に窓から射す初夏の太陽が揺れている。目の前にまさしく水の感触のする日光が出てきてしまった。唇がにやけて歪むのを力一杯押さえながら彼女は記入済みの紙を提出した。彼は特に向かいに座るわけでもなく、紙を受けとってうろうろと店内を歩きながら
「楠本相子……あぁ、相思相愛の相ね。週に3日以上勤務可能……」
と呟いている。彼女は心の中で小さくフツー相思相愛は出てこないでしょ、とツッコミをいれた。大体バイトの面接っぽくないワ、ともつっこむ。そして出された水を一口飲んだ。
「あ、オイシ」
思わず口をついた感想に、彼が振り向いた。
「おいしい?」
「え、えぇ」
彼の質問の声があまりにも真剣なので、彼女は焦ってうなずいた。
「どういうふうにおいしいですか?」
「は?……いえ、どういう風にって言われても……ウーン、良く冷えてて、なんか、甘味っていうか、そんなカンジで、えっとー、きついイヤな臭いじゃなくって、ちゃんと水の匂いがするっていうか……」
しどろもどろと彼女は答える。口当たりが良く、ほのかな甘味が舌の上に広がり、喉ごしは極めて爽やか。「甘露」というのはまさしく、このような水のことだろうと思った。グルメ番組のタレントでもあるまいし、いきなり詰問されても上手に表現できるものでもないが。
 彼は彼女をじっと見つめて動かない。お水を誉めたのはやはりなにかおかしかっただろうか、それともボキャブラリーの貧しさが気に障ったのだろうか。彼女は椅子の上で徐々に体を竦めてしまう。ふむ、とひとつうなずくと、彼はすばやくカウンターの中へ入り、先ほどドリルで工作した棚を壁際に収め、真ん中の段に入れたオーディオコンポの配線をいじり始めた。突然の面接中断に彼女が困っていると
「さっきBGM用の棚を作っていたんです。出来た試しに、ちょうど今の気分にあった曲をかけようと思いましてね」
と、なんでもないことのように作業を続ける。ただ彼女は呆然と彼の後姿を眺めるしかなかった。最後にコンセントを差込み、彼は恭しく一枚のCDをデッキの中にいれた。バイオリンの緩やかな前奏が店内を満たす。早口で囁くような女性の透明な声が、美しい旋律に重なった。
「Time to say goodbye という曲です。歌っているサラ・ブライトマンという人は、この声のようにとても綺麗な人なんですよ」
……Time to say goodbye. 日本語に訳すとサヨナラを言う時。ってことは何?ワタシ不採用?なんでこんな遠まわしな断り方をするの!ご縁がなかったとか、イロイロ言い様はあるじゃない!と彼女の頭はぐるぐる鳴っている。声は伸びやかな高音で、サビであろう“Time to say goodbye〜”を歌い上げる部分に入った。確かに美しい声だ。天空に吸いこまれ、神にも愛でられそうな歌声だ。でも、のんべんだらりと聞く気になんてなれない!とカウンターを睨みつけ椅子から立ち上がりかけるが
「一曲終わる頃には紅茶が入りますから」
と彼はお湯をガス台にかけている。出鼻をくじかれその場を動くに動けず、彼女はもう一度座りなおした。曲はすでに二題目の男声独唱に入っている。二人とも一言も喋らず、店の中はオペラとお湯が沸いてくる音だけになった。
 男声を女声が追いかける。曲は終盤に向けてクレッシェンドしていき、二つの声はやわらかな囁きから強い歓喜を朗々と歌い上げるようになった。彼女はいつの間にか深くその曲に聞き入り、アールグレイの香りを胸の奥まで呼吸していた。素朴な藍色のソーサーに同じ色のカップで、二つの紅茶がテーブルに出された。彼女の正面に彼が座り、ゆっくり口を開く。
「別れを告げるとき。航海の始まり。あなたと二人で海に出る。今はもうない海を。二人で作る、果てしなき心の海に旅立つ。正しくはないですが、大体こんな内容の歌詞なんですよ。……バイトを申しこんだ人の中で、ここの水を即答で誉めてくれた人はあなたが初めてです」
芳しい湯気の向こうで、彼は今日の天気と同じ、水を湛えた光の微笑みを顔一杯に広げた。
「二人で、素敵なお店にしましょう」

どうやら彼女は見事採用されたらしい。







700HIT感謝!の贈り物です。
アイコさんと謎多きマスターの出会いを書いてみました。
あうう、尻切れトンボでごめんなさーい!

BGMは当然“Time to say goodbye”です。 いやホント、サラ・ブライトマンは美人。

キリ番ゲッターのアイコ様へ捧ぐ!
きっさアミーゴ

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