カウントダウン


 神様が囁いている。
 こんな状況になってまで僕の頭の中では一つの言葉が回転しつづけている。いつかどこかで知った言葉がやけに気にかかる。それは神様の囁きなんだそうだ。だからといって何もこんな状況のときに囁かなくてもいいだろう。……まっすぐ心臓に銃口を突き付けられている、こんな状況で。

 アメリカは物騒な所だと聞いていた。だから留学当初は過剰過ぎるくらいに気を付けていた。しかし人間は慣れの動物である。実験が長引いて、11時をとっくに過ぎていた。以前ならそのまま研究室に泊まってしまうような時間だが、軽い気持ちでアパートメントに帰る途中の出来事だった。
「Mr.キュンスター?」
 背後から男の声が聞こえた。名前を呼ばれて反射的に振り向いた途端に羽交い締めにされ、手首をガムテープでまとめられ、路地裏の倉庫の中に引きずり込まれた。
 完全にパニックに陥った!
 助けを呼ぶ声さえも出せないまま、コンクリートの床に転がされた僕の目の前で、鉄扉は無情にも閉められた。男達は僕を押さえつけ足首にもすばやくテープを巻きつけた。3人の男は無様に転がった僕を見下ろして低い声で笑った。大声で笑いたいのを押さえるような、含み笑いだ。天窓から青いネオンの光が少しだけ入りこんでいるが、逆光になって彼らの顔は見えない。3人のうちの2人が倉庫奥の闇の中へと消えていった。残った1人は古びたワインの木箱に腰掛け、ジャケットの内ポケットへ手を入れ……銃を取り出した。

 ニットのマスクをすっぽり被って顔を隠した男は、何も喋らないまま銃を僕に向けている。見張り役のようだが、何故かさっきから頻繁に時計を見ている。
「あんた達は、誰なんだ。何が目的だ?」
 パニック状態から重苦しい恐怖の状態へ移行した僕は、ようやく声を出すことが出来た。酷くかすれている。しかし男は答えてくれない。
 一体これはなんだ。強盗?誘拐?貧乏留学生を誘拐して何になるというのか。第一彼らは僕の名前を呼んだ。おそらく僕を知っているのだろうから、誘拐したって身代金が出ないことぐらい分かっているだろうに。僕は額や背中から最悪な汗を流しつづけてはいるが、なんとかここから助かる方法を考えなければならない。早く、一刻も早く!
 僕を急かすような秒針の音が聞こえる。括られた手首のあたりにある腕時計の針の音だ。いやにひっそりとしたこの空間では、いつも気にならないはずの音までもが、こんなに大きく聞こえる。……いつも気にならないはずのもの。どうして今まで思い出しもしなかった言葉が、繰り返し繰り返し、鼓膜の中で振るえているのだろう。言葉の渦に目眩がする。男のわずかな動きに体が強張る。息苦しい。
 男がまた時計を見た。これで何度目だろう。
「……今、何時だ」
 当然答えてくれない。喋るな、というように男は銃を構えなおした。仕方なく僕は口をつぐんだ。ここへ連れ込まれてどれだけの時間が経ったろうか。沈黙の空気に押しつぶされ、随分と長い時間が経っているように思う。研究室を出たのが確か11時30分ぐらいだったから、もう日付は変わっているだろうか。
 神様が囁きつづけている。なんとかしてくれ。もっと冷静にならなければいけない時なんだ。頭蓋骨をガンガン打ちつけるこの言葉を止めてくれ!搾り出すような溜息をついたその時
「時間だ」
 と男が突然立ち上がった。彼はいかにも簡単なことのように、僕の心臓に狙いをつけ撃鉄を起こした。


「君は奇跡だ!!」

 思わず叫んだ。脳内を満たしていた言葉がこんな状況でこぼれ出てしまったのだ。「あぁ?」と男は首を傾げた。
「……君は、奇跡だ。だから、だから……えっと、だ、から殺さないでくれ」
 君は奇跡?支離滅裂だ。たしかもっと長い台詞だった気がするけれど、それがどうした。もっとまともな命乞いをするべきだろう!僕の場違いな叫びに男の足は一瞬止まった。しかし所詮ほんの一瞬。再び男はゆっくり近付いてくる。なんとかしなければ。落ち着け。助けを。僕を。君は。何が。奇跡が。君は奇跡、きみはきせき、キミハキセキ。
 胸倉を掴まれ、無理矢理体を起こされた。あごに銃を当てられる。男はまた腕時計を睨みつけた。
「5秒やる。祈れ」
 硬質な声。
「5・4・3・2・1」
 僕の人生はここで終わりか!?かたく、かたく目を閉じた。

 パーン!パン、パパーン!

 破裂音。火薬の匂い。さらば、23年と364日の人生。僕の固く閉じた目はもう開かない……はずなのだが。周囲が突然明るくなったようだ。恐る恐る目を開けると……

「Herzlichen Gluckwunsch zum Geburtstang!!」

大勢の声。懐かしいドイツ語でお誕生日おめでとう、と。見慣れた顔が並んで、みんな手にクラッカーを持っている。あごに突きつけられていた銃の先からは万国旗がぶら下がっている。マスクを外した男の顔は、なんと同じ研究室のトーマスだ。
「悪かったなぁ、ビックリさせて。誕生日おめでとう、フランツ」
 手と足のガムテープを外しながら、トーマスは笑いながら謝っている。倉庫内に運び込まれたテーブルには、結構豪勢なオードブルが並んでいる。つまり、これは。
「サプライズ、パーティー……」
 脱力。座ったまま立てそうにない。さっきのカウントダウンは、日付が変わる瞬間を数えていたのか。僕の誕生日になるその瞬間を数えていたのか。
「腰が抜けたかね?」
 ……なんてことだ。教授までこの悪趣味なパーティーに乗っているだなんて。差し出された手をありがたく受け取って、僕はよろめきながら立ちあがった。
「君は奇跡、か。あの局面ですごい命乞いが出来るもんだね」
 教授は僕の肩を軽く叩く。うなだれた僕の顔は真っ赤になっているだろう。教授は言葉を続ける。
「パブロ・カザルスの言葉だったね。―― 子供達ひとりひとりに言わなければならない。君はなんであるか知っているか。君は驚異なのだ。2人といない存在なのだ。世界中どこを捜したって、君にそっくりな子はいない。過ぎ去った何百万年の昔から、君と同じ子はいたことがないのだ ――」
 教授はトーマスから2つグラスをもらって、片方を僕に渡す。
「さて、ここだ。―― そうだ、君は奇跡なのだ。だから大人になったとき、君と同じ様に奇跡である他人を傷つけることができるだろうか。君達はお互いに、大切にし合いなさい ――」

 君は奇跡。

 そうだ。確かそんな長い長い台詞だった。全文を通せば、立派に命乞いになる……かもしれない。教授はいつもの人懐っこい笑顔を浮かべながら、ワイングラスを掲げた。

「2人といない君に。君という奇跡に。されども尚、君と同じ名前のワインが存在する奇跡に!」

高らかに乾杯の声が上がる。グラスの鳴る澄んだ音。そして、誕生日おめでとう!と僕に向けられる皆の笑顔。こんなに沢山の、異国の友人達。……何だか泣きそうだ。本当に、生きてて良かった。
 テーブルの上に空になったドイツワインの瓶が数本置かれている。

 ラベルには“FRANTZ KUNSTLER”と記されていた。





765HIT感謝!ということでタイトルはカウントダウン。
“神様の囁き”は橘いずみの「SHANK BANK JAPAN」の大好きなフレーズです。
パブロ・カザルスというのは世界的な大音楽家だそうです。(BY信毎)
フランツ・キュンツラーは、ちょっと癖が強いけれど、大変美味なラインガウのワイン。

音楽とワイン好き、キリ番ゲッターの愚者様に捧ぐ!


愚者様から、パブロ・カザルスについて教えていただきました。

パブロ(パウ)・カザルスはスペイン北東部カタルニア地方出身の
20世紀最高とも称されるチェリスト。指揮や作曲も手掛けました。
カタルニア民謡の「鳥の歌」を得意としていて、
常に平和を訴えつづけた音楽家です。
晩年にはホワイトハウスで「鳥の歌」の演奏をしています。


お勉強になりました。流石!



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