たそがれ


 毎日同じ様な時間に先生はコーヒーを飲む。

「先生、コーヒーお持ちしました」
「あ……そうか。どうもありがとう」
 先生は書類から目を離して、カップを受け取った。それから時間を確認するように、窓ガラス越しに空を見上げた。外は一面黄金に輝いている。最近すっかり日が短くなってきた。
「今日もいい天気だったな」
 そう呟いて、先生は静かにコーヒーをデスクの上に置いた。
「これ、ありがとう」
 ソーサーに乗ったコーヒーフレッシュのパックのことらしい。
「いいえ。先生、夕方のコーヒーには必ずミルクを入れてらっしゃいますから」
 先生は1日に何回もコーヒーを淹れる。大概はブラックで飲んでいるけれども、この時間のコーヒーにだけは必ずミルクを入れる。
「どうしてですか?」
「え?」
「前々からお聞きしたかったんですけど、どうして夕方だけミルク入りなのかなぁ、と」
 先生の眉が軽く寄せられ、唇が少しだけ微笑みの形を作った。なんとも複雑な表情だ。その表情のまま、コーヒーを見て、外の景色を眺めて、ひとつ、深い溜息をついた。
「まぁ、今となってはもう習慣のようなものだね。自分でも馬鹿馬鹿しいと思うけど」
と言って先生は、がしがしと半分白髪の頭をかいた。なんだか照れてるみたい。これは何かロマンスの思い出でもあるのかしら、と興味津々の私に苦笑しながら、先生は静かに口を開いた。



 「黄昏」の語源について知っているかい?辺りが暗くなってきて行き交う人の顔が見えなくなってくるから、「誰そ彼」という問いかけの言葉が「黄昏」になったらしいね。あれも黄昏時の出来事だった。
   もう10年ほど前の話だ。そう、今頃と同じ季節だった。ちょうど今日みたいな西日が射していてね。駅裏の喫茶店も、ブラインドの隙間から殆ど沈みかけた太陽の光にさらされて……あれはあれで堪らなくいい雰囲気だったな。黄昏時の柔らかい空気が店に満ちていてね。今はもう潰れてしまったけど、「モーヴ」という名前の喫茶店だ。看板に葡萄の蔓の細工がしてあって、なかなか洒落た店だったよ。まあ、その喫茶店にね、確か待ち合わせか何かの時間を潰すためにたまたま入ったんだよ。それまで喫茶店だってことも知らなかったんだけど。え?今でも名前を覚えているワケ?……ま、それから何回か通ったからだね。違うよ、可愛いウェイトレスがいたとか、そんなことじゃないよ。そっちの方向の話を期待しても無駄だよ。聞くのやめる?はは、ハイハイ、続きね。
 とりあえずコーヒーひとつ、と注文した。
 暫くしてミルクとスティックシュガーを添えたコーヒーが出てきた。その頃からずっとコーヒーはブラックで飲んでいたんだが、「ブラックで」と言わなかったから、使わない物が付いてきてしまったんだな。別に使わなくていいか、と思ったんだが、ふとある友人のことを思い出した。
 物好きな人間はどこにでもいるものでね、こんな偏屈な私にも十数年来の友人というのがいるんだ。
 まあ、その物好きのことを思い出したわけだ。そいつは変わったコーヒーの飲み方をするんだ。砂糖なしミルク入り、ただし絶対にかき混ぜてはいけない。ちょっとおかしいだろう?なに、類友?類は友を呼ぶって……君はそういう目で担当教官のことを見ているのかね?あはははは、あー、いやいや、怒ってない怒ってない。実際変わり者だからね、私も。
 本題に戻ろうか。そいつが言うにはね、表面に浮かんだミルクとコーヒーの境目を飲むのが最高なんだそうだ。だから砂糖を入れてかき混ぜると、その境界が作れないからダメなんだと。そういうもんかと思って聞いていたんだが、逢魔が刻の魔術かね。試しにやってみたくなった。
 ちいさいミルクのプラスチック蓋を開けて、その口をコーヒーカップの飲み口にしっかり付けるんだ。カップの壁をつたわらせて、ミルクを少しずつゆっくり注ぎ込む。
 真っ黒なコーヒーの海に真っ白なミルクの道ができる。道は少しずつゆるやかに円になって、螺旋に広がって。次第にカップ一面が白に覆われてゆくんだ。ついぼんやりそれを眺めてしまったね。少し輪郭が滲んだミルクの円は、コーヒー全体に広がった。それから本当に、本当に少しずつミルクの白は温かみのある色になっていくんだ。カップの中の対流によって。ミルクにね、キャラメル色の小さな花が咲くみたいなんだよ。薄く幽かにマーブルを描いて、コーヒーの呼吸と同じ速さで溶け合っていくんだ。夕陽のせいもあったかもしれないけど、とてもやわらかな甘いクリームの色になった。
 コーヒーとの境目を壊さないように、自分でも面白いほど慎重にカップを持ち上げて、静かに一口飲んでみた。ミルクが不思議に甘く濃厚に感じて、コーヒーのうまい苦味が鮮明になって、素晴らしく美味しかった。口元で、マーブル模様がふわっと広がるのが見えた。


 「そうやって飲むのも、なかなか旨いやろ」


 聞えた声にビックリした。まさしく、その友人の声なんだ。取り落とすようにしてカップを置くと、斜陽に淡く照らされた彼が、私の真正面に座っているんだ。昏い黄色い光の中で、いかにも彼らしく、相変わらず嬉しそうに微笑んで。
 まさか彼がここにいるはずがない!コーヒーを倒しそうになったよ。乱暴に置いたせいで、カップの中は一瞬の煙のようにミルクが溶けてしまった。彼はにっこりと、秋の夕暮れみたいな笑顔を浮かべて、黄昏の灯りに消えていった。一瞬の煙のように。ミルクがコーヒーに溶けるように。
 ………まさか彼がいるはずはないんだ。彼は、半年も前に死んでしまったから。



「本当に彼を見たのかどうか、よく分からないんだよ。なにしろ“誰そ彼”だからね。大体私は、今でも死後の世界なんて信じていないし、神も悪魔も天国も地獄も存在しないと思っている」
 先生は少し冷めてしまったコーヒーに、ミルクを注いだ。カップの壁を伝わらせて、とても慎重に。
「夕方は逢魔が刻とも言ってね。昔の人は、人間が住む昼と魔物が住む夜の間にあたる黄昏は、ちょうど魔物に逢いやすいと考えたんだろうな。行き交う人の顔が見えないと恐怖心も増すだろうし。……全く馬鹿馬鹿しいけど、その後何回かモーヴに通ったよ。場所が大事なんじゃないかと思ってね。それから昔の人に倣って時間帯も合わせてみた。昼と夜の境目に、黒と白の境目を飲むといいんじゃないかと、ね。それで夕方にミルク入りコーヒーを飲むようになった」
 窓から射す西日で、逆光になった先生の表情はよく見えない。今では本当に習慣になってしまったがね、と先生は苦笑する。けれど。先生は自分で気付いているだろうか?お友達のことを「物好きがいる」と現在形で喋っていたことを。

「……魔だろうが何だろうが、もう一度彼に逢いたいんだよ」

 黄昏の空を見上げながら、先生はそっとカップに口をつけた。僅かに垣間見えたその顔は、軽く眉を寄せて唇に少し微笑を浮かべた、なんとも複雑な、秋の夕暮れのように儚い表情だった。






1100HITありがとうございます!!
リクエストは「コーヒーミルクが溶ける情景」
………………溶けてねぇじゃん。
BGMはSLTの「encounter1」。

えー、なんかイタイ系の話になってしまいましたが(滝汗)
キリ番ゲッターのhal様に捧げます。貰ってやって下さい!

hal様のHPへ →GO!



+BACK+ *HOME*