突然聞こえた声に、彼女は体を強張らせた。
彼女には、それが空耳であるということが分かっていたのだが、恐ろしいほどに鮮明に聞こえた声に全ての自由を奪われてしまった。
声は、懐かしい彼のものだった。
風の悪戯でどこからともなく聞こえる空耳、というのではなく、耳の奥でふいに再生スイッチを押されたような――プレイヤーはおそらく彼女の心という形をしている――あまりにも突然で、あまりにも明瞭な音だった。
彼がいなくなった時に、彼女からはまず触覚が消えた。
節の目立つ大きな手が、彼女の頬を撫でてくれる乾いた感触を味わうことが無くなった。
次に彼女の部屋からゆっくりと彼の匂いが消えていった。
時間が経つにつれて視覚すらおぼろげになってきた。
最初は彼の色々なシーンの色々な表情を思い出すことができたのだが、そのうち写真の中のアングルや表情が瞼の裏に浮かぶことが多くなっていった。彼が登場人物となる夢まで見なくなってきたし、見れたとしてもモノトーンの夢ばかりだ。
ゆっくりと彼を忘れていくことは、彼女にとって慰めでもあったけれど底知れぬ悲しみでもあった。
体が自由を取り戻し始める。
真っ先に動けるようになったのは、彼女の涙腺だった。
零れ落ちる大粒の涙が、彼を忘れていなかったことに対する安堵の涙なのか、それとも思い出したことによる淋しさの涙なのかはわからない。
キスの味を忘れ、優しい体温を忘れ、あんなにも好きだった太陽の匂いを忘れ、不機嫌な時の眇められた目の形を忘れて。
ただ声だけが、一番最初に彼女のもとから去っていった声だけが今も残っている。
落ちる雫をそのままに、彼女はある電器機器メーカーのロゴを思い描いた。
あの犬と自分とどちらが悲しいのだろう、と。
死んでしまった飼い主の声が、蓄音機から流れてくるのを不思議そうに聞き入る犬。
彼女は泣く。あの犬のほうが幸せだと。
なぜなら、彼の声はもうこの世界のどこにも存在していないからだ。
もう一度、心の再生ボタンが押されて、彼の声が甦った。
泣くなよ。
病院のベットに臥した、彼の最後の言葉だった。
彼女は両手で耳を塞ぎ、瞳を閉じて、記憶の奥から流れてくる彼の声を拾うために必死で耳を傾けた。
まるで、ビクターの犬のように。