降る夜



「……でもね、イッセイさん。やっぱむいてないのかなぁ、なんて思いますよ」
随分と雲の多い一日が終わり、冷たさが身体を包み込むような夜だった。最近イッセイさんが見つけたというカクテルの美味しい店の中で僕は今日何回目かも分からない溜息をついた。カウンターに座った僕らは、深海の青の色をした間接照明に照らされた酒瓶達を見るともなしに見ていた。
「むいてるかむいてないかなんてアタシに解るわけないだろう?」
イッセイさんは「私」がアタシに聞こえるいつもの喋り方で即答した。
「…………」
黙り込んだ僕に少し眉根を寄せて、イッセイさんはバーテンダーにお代わりを頼んだ。黒銀の小さな背もたれのついたスツールが、なんだか座り心地が悪くなったように感じる。
 僕がタンブラーをもてあまし気味に握ったり放したりしていると
「……君も知ってるとは思うけど、アタシは人を慰めたり励ましたりするのは苦手なんだ」
と、肩をすくめられてしまった。
「いや、なんて言うか、慰めってーか、その……、そういうんじゃなくって、うーん。……そうなのかなぁ」
「こういうことだな」
イッセイさんは出てきたカクテルを僕の前に置いた。淡く煙る薄紫色の液体。
「?なんです、これ」
「美味しいから飲んでみな。ブルームーンっていうやつだ」
「……こういうことって?」
目の前のブルームーンをお言葉に甘えてなめてみる。見た目と同じように、口当たり良いほのかに甘い 味がした。でも何が「こういうこと」なんだろう?バーテンダーを見ると、申し訳なさそうな笑顔を浮かべていた。
「青い月って見たことあるか?ないだろ。そーいうこと」
どーいうことですか。今度は僕が眉根を寄せる番だ。
「ま、気にすんな。職業と資質に悩む宮青年の前途に対する祝福と思ってくれ」
「祝福、ですかぁ……」
ますます気分は下降して行く。おそらく今僕の脳味噌をスライスすると、どうしようもないブルーに染まっているだろう。……この店の照明のような青に。
「奢ってやる、つってんのに落ち込むなよ」
と言ってイッセイさんは僕のこめかみを指で弾いた。
「……いいです。祝福でもブルームーンでもナンデモモライマスヨ」
無理矢理に美しい紫をあおった。……リキュールの薬臭さが鼻に染みた。

 それから何杯飲んだだろうか。確かにここのカクテルは美味しかった。行き詰まってどうしようもなく落ち込んでいたデザイン企画のことも、アルコールに痺れた思考では気にならなくなってきた。
「こうして、てんらくって、はじまるんですかねぇ」
「はぁ?アル中になるきっかけか?馬鹿、お前そんなに飲んでないだろ」
「みしまセンパイ、が、強すぎる…んですよぉ」
「先輩言うな。気持ち悪い。イッセイさんって呼べって言ってるだろ」
「いやがらせ、ですよーん」
イッセイさんは僕よりも強い酒を僕よりも速いペースで空けていた。ついつられて、僕もいつもより沢山飲んでしまった。どうりで『イッセイと飲むのは危険だ』といつも周りが言ってるはずだ。
「さ、酔っ払い。帰るぞ」
気持ち良く最後のニコラシカを空けて、すぐさまコートを羽織られて、僕は慌ててよろよろと立ち上がりその後をついて行った。結局イッセイさんは二時間の間、何一つ僕に慰めの言葉らしき物をくれなかった。

 古びた樫の扉を開けると、途端に風のベールが纏わりついた。目の前のイッセイさんの髪の毛が羽毛のように巻き上げられている。暫く歩いてイッセイさんは真っ黒な雲が垂れ込めた空を見上げ立ち止まった。半歩遅れて歩いていた僕はその背中にぶつかりそうになった。

「……アタシの名前の由来を教えようか」

 唐突なことを、夜空を見上げたままイッセイさんは呟いた。
「アタシが生まれたとき、ちょうど一番星が見えたんだそうだ。父親は『俺達の目には一つの星しか見えないが、その向こうには千の星がある。千の星がこの子に降り注ぐように』って、千星…ちせい、と名付けようとしたんだ。そしたら母親が『チセイ、なんて語感が気に食わん。一番星やから一星でええやん』と強硬に反対したんだ。だからアタシはイッセイになった。一応女なのに男の名前をつける母親のセンスもどうかと思うがな」
イッセイさんはずっとネオンの挟間の闇を見上げている。
「今日は雲で見えないけど……、星空を見上げたときに人間が一度に見える星の数は六個なんだそうだ。父親の言にすれば、アタシ達にはいつも六千の星が降り注いでいる」
潮に焼けたような長く細い髪が黒いコートを背景に踊っている。僕は戸惑って、ただイッセイさんの背中を見つめていた。立ち止まった時と同じ様に、突然彼女は僕の方に向き直った。
「あー、つまり、なんだ。…アタシにも宮君にも沢山の星が降ってるんだ!なんとかなる!」
「…………えーとぉ、無限の可能性、とか、そういうことでひょうか……」
冬の空気に晒されて幾分酔いが引いてきた僕は、怪しげな発音で応えた。
「可能性は無限、なんて口が裂けても言いたくないね。有限だが大量の可能性に関する、取捨選択の自由と努力だ」
風にまかれる髪を鬱陶しげにかきあげ、イッセイさんは吐き捨てるように呟いた。歓楽街の喧騒と、北からの風のせいで、その声はどこかに流され掻き消えていった。それほど小さな呟きだったが、僕の耳は確かにそれを拾ったのだ。
 呆然とイッセイさんの横顔を見つめる。僕の視線から背けられた顔が艶かしい赤いネオンに染まっている。……そのせいで、なんだか照れているように見える。イッセイさんはポケットに手を乱暴に突っ込んで紺色のなにかを取り出した。
「宮君、これつけてけ。男物だから入るだろ」
と僕の手にその紺色を無理に握らせた。柔らかい皮の手触り。
「きちんと帰れよ、酔っ払い。……今日は星の降る夜だから」
けらけらと声を上げながら、その唇が微笑の形を作る。馥郁とした花びらが散るような、会社では見たこともない笑顔だった。
 じゃな、と軽く手をひらめかせ、イッセイさんは大通りへ出る道を曲がっていってしまった。

 僕はビルの影に溶けていった黒いコートを見送り、賑やかな中に独り取り残された。
「……慰めて、くれたんだろうか」
だとしたら確かにイッセイさんは慰めるのが下手だ。でも、とても上手だ。ストレートな優しい言葉じゃないけれど、うつむき加減の体に浸透するものだった。
「でも星の降る夜って……」
雲に覆われた空を見上げる。
 星だ。
天から真っ白な小さなカケラが降って来る。今年初めての雪だ。星のような小さな粉は、紅潮した僕の頬にとまると一瞬で水になった。

    −−−イッセイさんにも、僕にも、全ての人に六千の星が降っている−−−

僕は手の中のものを強く強く握り締めた。夜空と同じ色をした皮の手袋は、イッセイさんの温もりを伝えてくれた。




summerさんへの6000ヒット記念で書いたものが……。
結局何が言いたいのかわけわからんぞ自分。
わけわからんのはいつものことか。
ごめん。もらってやって。

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