「だから頼み方が悪いんだ」

 仕事が一段落ついたところで、大きく伸びをしながらイッセイさんが言った。仕事といっても……彼女は僕のミスのフォローをしてくださっているわけで、一段落ついた今は、すでに夜の10時をとっくに過ぎてしまっておりまして……。
「頼み方、ですかぁ」
 やはり馬鹿な後輩せいで、せっかくの金曜日なのにこんな時間まで残業をする羽目になって、さぞかし怒っているのだろう。僕の頼み方が悪かったから、機嫌を損ねているんだろう。
「ホラ、その顔だ」
 けけけ、と笑いながらイッセイさんは僕を指差す。
「いいかね、宮君。そんなびしょ濡れ子犬みたいな顔で、助けてくださ〜いって言われたら、あんまりにも可哀想で断れないだろう?」
 断れない、ということは、頼み方が良かったのではないだろうか。確かに世にも情けない顔でお願いした自覚はある。社会人になってこれほど本格的なギリギリテンパイに陥ったのは初めてだった。もう泣きつくしかなかったのである。しかし、泣きついた先輩は、僕の頼み方が悪いと言う。
「でも、濡れ子犬の顔のおかげで手伝って頂けたんですから、僕としては最高のお願いの仕方ですよ」
 書類をまとめて、お互い帰り支度をしながら会話は続く。その間もイッセイさんはいつもの不思議な笑顔を浮かべている。アリスが出会ったチェシャ猫というのは、おそらくこんな笑い方をしているのだろう。 「頭ってのは優位になった時に下げるもんなんだぞ。リチャード・王もそう言っているだろうが」
「誰ですか、リチャード・ウォンって」
 優位になった時なんて、普通頭を下げないだろう。きっとリチャードさんは胃が破れそうな失敗をしでかしたことがないのだ。僕は改めてイッセイさんに向かって深々と頭を下げた。
「でも、ほんっっとに助かりました!今度絶対なんかお礼をします!」
「ほう。青年の懐を当てにして良いのか?ちょーど今欲しいモンがあるんだがな」
「なんですか?とうとう手帳を持つことにしたんですか?」
 何故かイッセイさんは手帳を持っていない。そろそろ本屋に手帳の新作が出まわる時期だから、何か心動かされるものを見つけたのかもしれない。ところが彼女は首を横に振って、意外にも
「ハンドバック」
と言った。
 ハンドバックとは、またなんともらしからぬ、女性的なものだ。いや、間違いなくイッセイさんは女なのだが。イッセイさんは更に唇の端を上げて、斜め向かいの狭山さんの机の上から最新のファッション雑誌を手に取った。
「ヨウちゃんに見せてもらったこれに、好いデザインのが載ってたんだよなぁ」
 と独り言のように呟きながら、ページをめくっていく。と、すぐに手が止まった。
「これだ、これ」
 イッセイさんの指は、白い皮製の小ぶりなハンドバックの上にある。細い銀の持ち手とかぶせにあしらわれた赤いステッチ。マチの部分は濃い紺色でいかにも上品なものだ。こういうすっきりとしたデザインはイッセイさんに似合いそうだ。ページの頭には『やっぱりPURADAがなくっちゃ!』の黄色いあおり文句。
 ……ぷらだぁ!?値段に目を走らせるとなんと86,000円!
「バックって、こんなに高いんですか……」
「ああ、こっちのでもいいぞ」
 2,3ページめくって、ハンドバックの洪水の中のひとつを指差す。ベージュのツイード素材と明るい茶色の皮で作られた、これまた小ぶりのボストンバックだ。
「これは……あ、20,000円ですか。これならなんとか……」
 口走ってから僕は凍りついた。ちょっと待て、なんだかんだで20,000円だぞ。第一、「買ってくれ」の言葉もないうちに、いつの間にか僕はイッセイさんのバックを買うつもりになっている。
 知らずにワンダーランドに迷い込んだ僕に、満面のチェシャキャットスマイルが言った。

「お願いっていうのは、こういうふうにするもんだ」





「stereotype:」へ20000HITおめでとう記念小噺。
summerさんに無理矢理贈りつけたります!
いつの間にやらイッセイさんと宮君の登場は3回目です。
シリーズキャラクターとハードボイルドワンダーランド(謎)



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