月光   



 ドアが閉まって鍵が掛けられた。

 

 カーテンの隙間から月光が射しこんでいる。忍び込んだ淡い光はリノリウムの床に細く白い帯を描いて、室内の闇色を少しだけ和らげた。

――― ここはどこだろう ―――

 酷く薄暗いことしか分からなかった。それからもっと重要なことを思い出した。

――― 自分は誰なんだろう ―――

 思い出した、というよりも忘れていたことを思い出したと言ったほうが正しい。だが一つだけ、はっきりと分かることがあった。

――― ここは自分の居る場所じゃない ―――

 何故こんなことを考えたのかは分からない。ただ月の光が。月の光が不思議と懐かしくて仕方がなかった。ここでこんな風にこの月を見ていたのではない。自分には別の居場所がある。それだけは確かに憶えている。

――― どうしてここに居るんだろう ―――

 ふと気が付いた。こんなに考え事をするなんておかしな話だ。自分の居るべき場所では、こんな物思いはなかったはずだ。そもそも「考える」こと自体していなかった。

――― していなかった?ということは自分は元は別の場所に居たのだろうか ―――

 電気が弾けるように思い出した。

――― 自分は元は別の場所に居た ―――

 カーテンの隙間から見える真っ白な月。もう何十年も、暗い部屋からひそやかな月を見つめつづけている気がする。そして、ついさっき初めてここから月を見た感じもする。既視感と酩酊感に体が揺れる。
 もう一つ思い出した。こうやって月を眺めて何かを感じるなんて、前の所ではないことだった。

――― そう。自分は機械みたいなものだ ―――

 何を考えるでもなく、感情もなく、唯仕事をこなし続けていた。当然感情がないのだからそれを不満に思うことすらなかった。情報を受け取り、ただそれを流すだけ。判断は別の者がやってくれた。

――― 本当に、本当にそうだったのか? ―――

 ではどうして今こうやって考え事をしている?もしかしたら、自分で考え、自分の感情を例の判断係に送っていたのではないか?そうでなければ、ここでこうして何かを考えるなんて出来る訳がない。
 考えれば考える程、わからなくなってきた。何故ここに居るのか。もとの場所はどこなのか。自分は誰なのか。どうして独りなのか。

――― ひとり ―――

 急にキリキリと悲しくなった。涙が、月光を浴びてゆらゆらと下へ落ちていった。
 思い出したのだ。自分が一人ではなかったことを。大切な者。決して向かい合うことはなかったけれど、常に傍にいた存在。自分と同じ、もう一人の自分。

――― 自分の居場所はここじゃない! ―――

 静かな考え事が激情に変わった。自分の居場所はここじゃない。月光にくるまれた、この透明な檻の中じゃない。こんな孤独の海の中じゃない。

――― 助けてくれ!君がいないと、あの月がどれだけ遠くにあるかもわからないんだ! ―――

 全身を力の限り檻にぶつけた。ぐらり、と世界が回った。砕けた檻の破片が舞い散り、青く冴えた月の光をうけて輝くのが見えた。

――― 君の、隣へ ―――




 ドアが開いた。忘れ物を取りに来た研究員は、室内のホルマリンの匂いに鼻を押さえた。月の光を頼りに見ると、棚にあった眼球の瓶が落ちてしまっている。小さな溜息をつき、片付けは明日、と呟いて、机に残された書類を手に取った。


 ドアが閉まって、鍵が掛けられた。





高校の文芸部誌、テーマ「瞳」に載せたもの……をZAZA用に焼き直し。
文芸部の中でも流石に眼球そのものを書いたのは僕だけだった。 

BGMはスピッツの「宇宙虫」。石田小吉プロデュース。いえー。

信州大学SF&Mystery研究会のHPへ→GO!



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