いのちのけむり 



 なんという名前だったかは覚えていない。適当に入ったが、雰囲気のいい店だった。
「やれやれ、いやな霧だ」
服についた雫を払ってカウンターに座った。初老のバーテンはこちらが口を開くまでなにもしない。ご注文は?の一言があってもいいのに、と思いながら軽いカクテルを頼んだ。意外にも、かなりいい味だった。これはラッキーな店に入ったと、心のなかで笑っていると、ふたつ隣の椅子から溜息が聞こえた。
「つぎが最後の一本か」
グレーのスーツを着た男が煙草の箱を耳元で振っている。口にはすでに火のついた煙草がある。ヘビースモーカーでチェーンスモーカーのようだ。彼の方からは強く甘い薫りが流れてきた。外国の煙草なのだろうか。
「珍しい薫りでしょう」
「えっ……」
突然男が声をかけてきた。しかも、なんだか考えていることを読まれた気がして、すこし動揺してしまった。男はゆっくりと紫煙を吐きながら微笑っている。
「この煙草はねぇ、特別なんですよ。……私の命でね」
やわらかな口調。ちょっとこの男と話をしてみたくなった。
「命ですか?随分とお好きなんですね。紙巻ですよね、それ。有名なやつですか?」
「いやいや、銘柄なんてありゃしませんよ。でも素晴らしいやつですよ。これに比べたら、コイーバなんざ、ただの水蒸気ですよ」
コイーバという名前には聞き覚えがあった。確か数年前まで恐ろしく入手が困難で、愛好家達に「幻の名品」と言われていた葉巻だ。
「名品中の名品ですね。どこの物ですか?やっぱりバハマ?」
そう尋ねても男はやわらかく笑ったまま煙草を吸うだけだった。さっきから結構時間が経っているのに男の煙草は全然短くならない。よほどきついやつなんだろう。世の中というのは上手くできていて、軽い煙草ほどなくなるのが早い。だから吸う本数が強いものより多くなって、結局ニコチン量は同じ位になってしまう。
 紫煙が額の辺りをこえていった。彼が命と言ったのがわかる、夢のような芳醇な薫りだ。吸ってみたいな、とちらちら男を横目で見る。
「あのー、もし良かったら……」
「だめです」
「何も言ってないじゃないですか」
男は優雅に灰を落とし、溜息と同じ長さの煙を吐いた。
「この煙草を吸いたい……でしょう?」
「ああ、まーその通りです」
少し照れ臭くて前髪を引っ張った。正直なところ彼が羨ましかった。命とまで言えるものを持っている彼が。しかしそういうものを取るのはやはり失礼だ。
「いや、どうしてもって訳じゃないんです。最後の一本なんでしょう」
あっさり要求を引っ込めると、男はかなり驚いた顔をした。灰がカウンターの上にぱらぱらと落ちてしまっている。慌てて灰皿を下に置いた。
「あ、いや、どうもどうも。えぇ、ちょっとビックリしただけですよ。前にも何人かこれを吸いたいって人がいたんですがね、断るのにいつも苦労していたんですよ」
そこで言葉を切って、男は席を立ち僕のすぐ隣に移動した。
「あなたは善い人のようだから言いましょう」
囁き声だった。
「私はね、タバコ星人なんですよ」
「はぁ?」
思わず大声を出してしまった。テーブル席の辺りから痛い視線を感じる。
「しー!声が大きい。タバコ星人としか言いようがないんですよ」
何やら話が急にSFじみてきた。喉を潤したくてグラスを取ったが空だったので、バーテンに同じものをもう一杯頼んだ。
 ふと見ると、男はいつのまにか二本目、つまり最後の一本に火を付けている。
「私の育ったところでは、人は生まれてくるときに煙草を抱えているんです。沢山の煙草を持ってくる人や、ほんの少しの人もいます。で、生まれたときから煙草を吸うんです」
「なんか……信じ難いですね。それでどうなるんです?」
「抱えてる煙草の量はその人の命数なんです」
氷がグラスの中で涼しい音を立てた。僕は男の言葉に軽く笑った。
「はは、随分と不平等なんですね」
「と思うでしょう?でも案外世の中ってのは上手くできてましてねぇ。沢山抱えてきてもすごく軽いやつだったり、少なくてもきつくて、一本吸うのに半年かかるものを持ってる人もいます。結構平等でしょう?」
「でも……」
と反論しかけると、男は手で僕の言葉をさえぎった。
「時間なんてモンは絶対的なものじゃないんですよ。皆自分なりの時間を持っているんです。多い人は多いなりに、少ない人は少ないなりに、ね?」
「うーん。なんとなくわかる気がします」
男の言っていることはこの前読んだ本によく似ていた。ネズミの寿命は人間よりはるかに短い。ゾウは人間よりも長生きだ。しかしどの生物も一生の間に心臓が打つ回数は大体同じなのだそうだ。ゾウにはゾウの時間、ネズミにはネズミの時間がある。と、筆者は言っていた。それにしても、男の話に出てくる世界がもし本当にあったとしたら、自分の寿命が目に見えて減るのがわかるのだ。怖いだろうな、と思った。とたんに首筋にぞわりといやな感覚が走った。男の方を見る。煙草は半分ほどの長さになっていた。
「……じゃあ、あなたは、この煙草が終わったら……」
「ええ、死にますよ」
なんでもないことのように男は言葉を返した。深く長い息が濃密な青い煙と共に吐き出された。
「でも私はタバコ星人ですから」
男は笑顔だった。一生忘れることのできないような、イイ笑顔だった。
「仕方がないんですよ」

 最後の灰が落ちた。男は文字通り煙のように消えた。


人の死はその人の持つ時間が尽きたこと。
納得していてもやはりそれは悲しいことだけれど。
仕方がないんだろうな。

中公新書「ゾウの時間 ネズミの時間」はお勧め。


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