incense,incense





 コリンウォール伯爵夫人が彼女の良人に反旗を翻したのは、冷たく冴えた風がロンドンを吹き渡る頃のことだった。そのことで様々な憶測が社交界を賑わせたものだが、コリンウォール伯爵夫人は、冬から春にかけて何を聞かれてもただ悲しげに瞳を伏せていた。夫人の清らかな儚い微笑みを損なうことに罪悪感を感じる人々の良識により、スミレの蕾がふくらむ頃にはすっかりその話題も沈静化していた。

「ところで、原因は何なの?シンシア」
木漏れ日が湖に乱反射してパラソルの内側に幻想的な絵画を描く夏の午後。公園内のカフェで、レディ・アガサはまさしく単刀直入にシンシア…元コリンウォール伯爵夫人に尋ねた。シンシア・アスティンはまずその透き通るような翠の目を見開き、それから肩を振るわせ始めた。
「………もしかして、まだ聞いちゃダメなことだったかしら?」
「クッ、クククック……フフフフフ!」
飲んでいるイチゴソーダのように、突然はじけるように笑い出した彼女に、レディ・アガサはほっと胸をなでおろした。
「そんなにストレートに聞いてきたのはあなたがはじめてよ、アガサ!あなたって、本当に…クスクス。そんなんだから『クレイテンシュバンツ』なんて呼ばれるのよ」
「いいのよ、跳ねっ返りで。あなたのようになるなんて、私には100年かけても不可能な事だわ。で、真相を聞いても良いのかしら?」
「どうして聞きたいの?」
「そうねぇ……。私があなたの友人だからよ。あなたの決断が何か悲しいことの上にあるものだったら、私はその悲しみを知って、出来るなら少し減らしたい。そういう理由じゃ駄目かしら?」
悪戯と好奇心に満ちていた表情が消えて、アガサはふいに真剣な眼差しで見つめてきた。顔をそらして、シンシアは湖の方へ目を泳がせた。波打つ湖面が幾千もの宝石を空中に放っていた。随分と長いこと彼女はそうしていたが、光る波を見つめたままゆっくりと可憐な唇を開いた。

「原因ね……。サヴォイのウェルカムチョコレートと、安香水の匂いかしら」

溜息と呟き。シンシアは評判の、清らかで儚い微笑みをよりいっそう儚くして微笑んだ。
「どういうこと?」
「ジェームス…あぁ、もうコリンウォール伯爵と呼ぶべきね。彼、マデリーン・マイザを贔屓にしていたの。特別にね」
「マデリーン・マイザって……あの女優?特別って…そういうことで?」
「そう、彼の愛人。マデリーンには、他にも色々パトロンがいるようだけど。ドミ・モンド(裏社交界)の女よね。……まぁ、皆様隠れてリッツやサヴォイをお使いですから、私が目くじらを立てるのもおかしいのでしょうけど」
「でも、表立って知られたら大変なスキャンダルよ!」
「ええ、そうね。だからわたくしは沈黙を通したのよ。彼もずっと彼女を買っていることは秘密にして、わたくしにも知られないようにしていたわ。わたくしも勿論気が付かない振りをしていたの。………ただ」
「ただ?」
「彼が私を貞淑な妻だと侮りすぎたの。隠す努力を怠ってしまったのよね。…ふぅ。あなたは独身だから分からないかもしれないけど、女優の安香水を匂わせながらただいまのキスをして、それがホテルのウェルカムチョコレートの味だったら、いくらわたくしでも怒るわ。浮気は妻に知られてはいけないものだと思わなくて?」
「隠していれば良いとも思わないけどねぇ……」
「いいえ!隠していれば良いの!……ごめんなさい、大きな声を出して。それでわたくしすっかり頭に血がのぼってしまって、彼に思いっきり香水を振り掛けて『離婚いたしましょう!』と言って……」
「それで、離婚」
「そう。それで離婚」
話し終えて、シンシアは残りのソーダを美味しそうに最後まで飲み干した。
 アガサは大げさに肩をすくめ、
「The incense incense you.というわけね。ま、おめでとうというべきかしら?」
とにっこり笑った。シンシアは目を細めて微笑み返した。
「そうねぇ、あなた離婚して良かったわよ。綺麗になったわ。前は伯爵にがんじがらめにされていた感じがしたものよ。活き活きして、新しい香水をつけるようになって……独身を謳歌しなきゃ」
アガサは自分ティーカップを目の高さに掲げた。シンシアも空のグラスを軽く持ち上げて揺らした。
「でも少ししかつけていないのによく香水を変えたことがわかったわね」
「だって、あなた今まで愛らしい甘い香りを好んでいたでしょう?それが急に 濃厚な薔薇の香りになったんですもの。……もしかして、それが元ご主人にぶっかけた香水?」
シンシアは軽やかに笑ったかと思うと、アガサの肩越しに何かを見つけていっそう笑顔を深くした。アガサが振り向くと、カフェの入り口にいる長身の男性が目に入った。
「あら?ディカード男爵?」
突然シンシアが立ち上がった。そしてボーイを呼んで二人分の代金を払った。
「シンシア?」
「この香水ね……彼からの贈り物なの。ジェームスは私を貞淑な妻と侮りすぎたのよ」
清らかで儚い天使の微笑みではなく。シンシアは極色彩の夏の陽光のような笑顔でカフェを後にした。

 アガサは彼女の残した薔薇の香りの中で、ティーカップを再び、彼ら二人の消えた方向に掲げた。




「The incense incense you.」その香りがあなたを怒らせた。
という意味のつもり……文法全く自信なし。シンシアは
坂田靖子の「バジル氏の優雅な生活」に出てくる
ラムズコート伯爵夫人(廃園の秋)みたいな
人だった予定が…。予定は未定で豹変


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