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聖人・宮沢賢治
-追悼文に見る-

 現在我々が知る偉大な宮沢賢治像というものは、彼の死後、時間をかけて次第に形作られてきたものである・・・とあなたはどこかで聞いたり、そう思い込んだりしていませんか。
 でも、ほんとにそれは正しいでしょうか。

 ここに掲げるのは彼の死亡時の地元新聞紙面です。
 一読して驚かされるのは、どの文章からも殆んど現在におけるのとなんら異ならない独特の評価をはっきりと読み取ることができるということです。詩壇からの強い注目も聖人としての定評も、またその変人ぶりも、すでに生前から確実に存在していたことがはっきりと分かります。「その死後、意図的に過大評価され、時代の要請によって聖人に祭りあげられた。」とか「生前にはまるで何の評価もなかった田舎の二流文学青年であった。」などのような見方はこの紙面の前には殆んど意味を失ってしまいます。
 少なくとも、現在の一般的な宮沢賢治像は時間をかけてことさらに形作られてきたものではなく、彼の死亡時には既に知人達の間に自然に、かつ確固として定着していたということだけは確認しておかなければなりません。七十数年間のああでもないこうでもないの果ての平成における現在の様々な勿体ぶった宮沢賢治評は一体何なのでしょう。自称研究者たちの虚業を笑わずにはいられません。

 偉大な業績の評価に関係するものを青色、聖人としての評価を思わせるものを赤色、聖人君子然とした生き方とは対照的な印象をピンク色で示しました。

 

目次

 詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す

 故宮澤賢治氏葬儀

 疑獄元凶 宮澤賢治遺稿

 『寒峡』巻初の数首に就て 宮澤賢治遺稿

 追憶記 上 森惣一

 信仰の人宮澤さん 関徳彌

 追憶記 2 森惣一

 春谷暁臥 …(心象スケッチ)… 宮澤賢治遺稿

 或る日の『宮澤賢治』 藤原草郎

 知己の詩人の便り四通 佐藤惣之助 中西悟堂 高村光太郎 段塚青一

 故宮澤賢治 母木 光

 宮澤さんの事 梅野健三

 

手日報昭和8年9月22日

 詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す 日本詩壇の輝しい巨星墜つ 葬儀はあす執行

花巻町豊沢町宮澤政治郎氏長男宮澤賢治氏はかねて病気中のところ最近小康の状態にあったが廿一日午後一時半病あらたまり遂に永眠したが享年三十八、氏は先に盛岡高農を卒業、花巻農学校に職を執られ、また田中智学氏のもとにあって深く仏教をきわめ大正十三年心象スケッチ詩集『春と修羅』童話集『注文の多い料理店』を発表して日本詩壇に嘗てない特異の存在を示し新しい巨星として全日本詩壇注目のうちに詩作を発表してゐたもので詩、童話その他数十巻の未刊の作品を所蔵され、その非ジャーナリスチックの故に高名であり『春と修羅』の如きは刊行当時発行所の不誠意から夜店で売られたりしたが現在は所持者は卅円でも手離さない古典的な名詩集となってゐる、尚葬儀は廿三日午後三時から花巻町安浄寺で執行される(写真は故宮澤賢治氏)


日報昭和8年9月24日

 故宮澤賢治氏葬儀

故宮澤賢治氏葬儀は二十三日午後二時花巻町豊沢町自宅出棺同町安浄寺に於て執行されたが生前故人の徳を偲び会葬者二千を数へ盛儀を極めた弔辞は
 盛岡高農上村勝爾氏、岩手県歯科医師会長今野英三氏、詩人藤原草郎、母木光、森惣一、梅野健三、花巻秋香会、花巻農学校同窓会代表小田中光三氏
で弔電二十八通に及び同三時葬儀を終はった尚故人の遺言によって法華経一千部を刊行生前の知己に贈る筈である


岩手報昭和8年9月29日

 学芸 第三十七輯 宮澤賢治氏追悼号

 疑獄元凶 宮澤賢治遺稿

 (本文

△ 付記 宮澤さんの第一詩集『春と修羅』並に第一童話集『註文の多い料理店』以後歿前迄約十年間の作品は不朽の名作、光る作品で充されてゐます。それらは何れ『全集』として公刊されると思はれます。茲に発表いたします『疑獄元凶』の一篇は九月の上旬に一気呵成に書かれたもので、臨終の直前の頃を追憶するに絶好の作品と思はれます。宮澤さんの作品は■りの人々に容易に理解されないのを情なくも、うすらおかしくも、淋しくも感ぜられて特に『大衆向』との意趣で書かれたものであります。尚宮沢賢治氏全集は氏の遺言に依り遺稿を保管する御令弟宮澤清六氏の御手許で整理編輯されることになってゐます。読者諸兄に宛てられた書簡或は原稿賢治さんとの会見記、感想録とかを全集公刊の日迄お借りいたしたいと存じます。何卒左記宛御送付願ひます(藤原草郎記)
  △岩手県花巻町 豊沢町 宮澤清六氏宛

 

 峡』巻初の数首に就て 宮澤賢治遺稿

 (本文

△ 付記 歌集『寒峡』に寄せた本一文は、宮澤賢治氏が死直前、高熱に喘ぎ苦み乍ら、次第に弱ってくる視力を、淡くうつる電燈の光を頼りに書き綴った芸術的熱意に満ちた、尊く悲壮な感想文である。  (梅野健三)

 

 憶記 (私が北光路幻と云った頃或夜宮澤さんと小岩井駅から歩き出し、溶岩流を越えて大更駅に出たことがありました、) 森惣一
  上
 小岩井駅に降りると、駅前にさゝやかなバラック風のソバ屋があり、そこには暖かい光がともり、賑やかな人声がして居た、腹がすきかゝってゐた私達(一九二五年の五月十一日の宮澤賢治氏と森左一、宮澤氏は三十歳であり、私は北光路幻と称して十九歳であった)であったが、私達はそのソバ屋に入らず真直ぐに暗い道を小岩井農場の方へ向った。
――私が背広であなたが小倉服私達はあのソバ屋に入ると、検事か何か、裁判所に関係があるものに見られます。村の人達といふものは団結心、排他心が強いものでしてね、何か事件を調べに来たと思へば、暗いところへ行って何をされるかわかりません、恐ろしいものでしてね 宮澤さんがさう云った。あのソバ屋から光と話し声にまじって、暖かい湯気さへ外の闇に流れ出て居たのに、私達がよらなかったのはさういふ訳だった。宮澤さんの第一詩集『春と修羅』の小岩井農場といふ作品は、六百行からの大作であるが、宮澤さんは小岩井農場をこの上もなく好まれてゐたのだらう。話し乍ら行くと遠くで二匹の犬がなき、天狗巣病の多い桜の方か、落葉松の方からか、風の音にまじって人の話し声が流れて来た。
 ――人も自然の一部でせう……
 宮澤さんが云った。提灯をつけて遠くその人々は次第次第に私達と対角線の方向に去って行った。風が林に吹くやうに、地の上を流れて来る人の声は、自然なものであった。その人々が去ると
 ――向ふのは雲に見えますか、見えませんか……
 と、斜の方に腕をあげて指さした。月につきかさがかゝって、星が一つも見えない地平に、雲らしいものがおもおもと横たはって居た、雲のやうでもありさうでないやうでもあったが、雲でない場合何であるのか私は解らなかった。
 ――林ですよ、落葉松の林ですよ……
 芽ぶかない林が雲のやうに、たゝなはって見えるのであった。
 ――地平線をぢっと見てゐて御覧なさい、地平線がゆれますよ 波のやうに……
 立ち止まって暗たんと暗い空の下の地平線を見た、ぢっと見て居ると地平線がゆれ始めた。
 ――空をぢっと見て御覧なさい 網の目のやうに見えて来ますよ……
 私は云はれるまゝに地平を見たり空に見入ったりしてゐた。本部も通り過ぎて、ウバ屋敷の辺に来かゝった時、道が解らなくなったウバ屋敷の家々はしんと静まって寝てゐた、人も犬も猫もみんな寝てゐるらしく生き物の声は闇の中にたゞ一つも聞かれなかった。(たゞ水車の音らしいものが水音とともに聞こえてゐた)二人は道を見つけるため小山に登った。私はたゞ後について登ったのだが、山の上には、すかして地上を見ると切り倒された木の根が五つ六つ白々と見えた。また降りて道をさがしたら今度は道らしいものがあった。そして平地に出た。
 ――一寸立ち止まって風に注意してください……
 林を吹く強い風はもう落ちてしーんしーんと耳のなる静寂がそこら一面にひろがってゐた。立止ってじっとして居ると、冷めたく微かにあるかなしかの風が顔に流れた。
 ――岩手山から降りて来る風ですよ、雪に冷却されて降りて来るのです……
 それは冷気とともに霊気といふ風なものを伴った空気の流れであった。私達は松の木を探してその下に眠ることになった。大地は暖かったが、岩手山から降りて来るその空気が冷めたく、どうしても深く眠ることが出来ずうつらうつらとして居た。おほむいて寝ると腹の方が冷めたくなり、うつむいて寝ると、背中の方が冷めたくなるのであった。
 ――■■な亀のやうなは虫類がおまへを食べると云ってどんどんおしかけて来ましてね…
 松の根元から立ち上って夜の底を歩き始めた時、宮澤さんが今見た恐ろしい夢を話した。夜この辺に来ると必ずよくない幻想に襲はれるとも云った。
 じゅ羅や白亜のまっくらな森林のなか
 は虫がけはしく歯をならして飛ぶ
 その氾濫の水けむりからのぼったのだ
 たれも見てゐないその地質時代の林の底を
 水は濁ってどんどんながれた
 いまこそおれは淋しくない
 こんなきままなたましひと
 たれがいっしょに行けやうか
 大ぴらに真直ぐ進んで
 それでいけないといふのなら
 田舎風のダブルカラなど引き裂いてしまへ
  (春と修羅九〇頁小岩井農場)
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 (幻想が向ふから追ってくるときはもう人間が壊れるときだ)
 わたくしははっきり眼をあいてゐるのだ
 ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
 わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
 きみたちの巨きなまっ白なすあしを見た
 どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
 白亜系の頁岩の古い海岸に求めたらう
  (あんまりひどい幻想だ)
 わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
 どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
 ひとはみんなきっと斯ういふことになる
  (同じく百八頁――百九頁)
 私達はやがて、柳澤社務所の近くでまた水の音が、なつかしく、むしろ暖かい感情で鳴るのを聞いた。ソバ殻を積んだ小屋の中で私達はうす青いあけ方までよく眠ることが出来た。社務所の前で顔を洗ひ、野原の真中で突然湧き出す清水の流れの近くで、高原の朝を肺いっぱいに吸ひ込んだ。清水のまはりにはむしろのように古い馬糞が数十坪程もしかれたやうになって居り、馬はしかし一匹も毛なみを光らして走って居なかった。くらかけ山の三角もそこに見え、岩手山は目の前にそびえ、朝の太陽が高原一杯に溢れて、私達は細胞の一つ一つが清々しく透明になるやうな感じであった。ゆうべ気味悪く、キャーキャーと鳥が泣いた柏林も向ふに見えた。柏林の中で月夜などに黙って立ってゐると鹿などが沢山群て来るやうな気がする、その柏林は
 ――広重の絵のやうですね、東海道五十三次の絵によくありますよ…
 と宮澤さんが云ったやうに古風に見えるのであった。ゆうべの事が何年も前のやうに思はれるので私がさう云った。時間といふものは、水や何かのやうな量ではないからですねと宮澤さんが云った。私はウォルサムの時計のやうに正確この上もないと思ってゐた時間の移り行く姿と人間の記憶とに対して限りない淋しさとわびしさを感じた。私達はもう五里位も歩いたのであったらうか。
  (一九三三年九月二十六日)

 屋根裏
 梅野、藤原二氏の付記に続いて足らないところを書きます。歌集『寒峡』の紹介文は、全く絶筆となったもので、そっちこっちへ線を引き、殆んど判読に苦しむほどなほされたもので、一、二、ともに一枚の原稿へちがった発想法で書かれてありました。私の紹介文が出たら、本紙に出すやうにといふ宮澤さんの意向なのでした。そして、私の紹介文の出た夕刊が花巻へ配達された頃は既に三四時間前に、宮澤さんは永眠されてゐました。
 遺稿は『春と修羅』第二巻は完全に清書されてあり、同じく春と修羅第三巻は発表を許さずと付記してあり、その他童話が十数篇完成して、手を入れて果さなかったのも相当ありました。『土壌学』『肥料設計』も、
随分権威あるところまで、研究がとどいてあったさうですが、一行も書いたものは残ってありません みんな悲しい虚無の彼方のものとなりました『疑獄元凶』は『大衆的な作品』として特に一篇書かれたもので、実弟清六氏から本紙へ贈られたものであります あの程の作品を十何歳からこつこつと書き始めて居られたのですが、氏の厳父政治郎氏は、たゞの一回もその作品を『これは解る、これは良い』と云はれた事がなかったさうです。外では皆で、世界的な芸術だとか何とか云ってほめてゐる時、内のものまでが、さういふことを云ったら一度に慢心してしまって、それに没頭し、飛んだ事になるといふのが、お父さんの考へ方でした、『唐人の寝言』といふ風に厳しく叱たされた政治郎氏でした。そして最近大衆的なもの誰にも解るものを書いて見よと云はれて、宮澤さんが書いたのが『疑獄元凶』の一篇で某氏をモデルにした心理描写の短文でした新心理主義文学の陣営にもその比を見ない文学だと私は断じてさう思って居ります(M、S)


岩手日昭和8年10月6日

 学芸 第三十八輯 宮澤賢治氏追悼号

 信仰の人宮澤さん 関徳彌

 私は宮澤さんとは親類になってゐるのだが生前さうお会ひする機会はなくて過ぎてゐた。だがその周囲のいろんな人達からは座談平語の中で或は色々の折りに何かと宮澤さんのを聴く機会は多いので、何か宮澤さんに就いて語るにしても、さうは困らないし、又間違ひのないところが語れると思ってゐた。
 然し昨日森さんからあなたは信仰の人宮澤さんに就いて書いてくれと言はれたが、
奇行逸話に富んでゐる宮澤さん、乃至は詩や童話作家としての宮澤さん、自然科学者、或は人間宮澤さん等を、語るのならその材料は実に書ききれぬほど富豊を極めてゐるが、本化妙宗教徒としての宮澤さんといふことになると、どうもこの御発表下さった遺言が一切を明瞭に説明し尽くしてゐるやうで、これといって何も書けさうもない、といふことになる傾きがある。
 
宮澤さんの遺言ほどこの頃の自分を感動させたものはない。あの遺言には宮澤さんの一切が包含されてゐる。あの輝かしいいくたの童話も、詩人達を驚嘆させた無数の心象スケッチも、その他のすべての行為もあの遺言によって一層の光を放って来た。信仰の人宮澤さんはあの短い言葉の中に余りに生き生きと表現され尽してゐる。いつか宮澤さんは露西亜の作家が掌上に書ける程の短い小説が書きたい、といったことを話して、俺もさういふものが書いてみたいと言はれたことがあったが、今度の遺言は正にその小説でもあり、光彩陸離たるその生涯の自叙伝でもあるとさへ思はれる。私はあの遺言を他の新聞にも転載さして頂いたが、重複するけれども、もう一度茲に書かせて頂きたい。
 私の全生涯はこの経をあなたの御手許に届け、そして其中にある佛意に触れてあなたが無上道に入られん事を御願ひするの外ありません
そして法華経一千部以上、表紙赤色、校正北向氏、送り先、詩人、学校友達、有縁の人々等、といふのである。この遺言は失くなられる朝、お父さんに筆写して頂いたものであるが、友人知己に対しての遺言であることは文面の示すが如くである。あの遺言を残された吾々は『春と修羅』を読む時も『注文の多い料理店』や、これから出版されるであらう、心象スケッチ 文語詩集、その他の作品、を読む時も普通世の詩や童話の作家の作品を読むときとは違って、是非法華経をみて佛意を一応は解してから読むのでなければ、本流の宮沢さんの作品のよさはわかるまいと思はれる。世の宮澤さんの友人知己に御願ひすることは是非々々法華経はお読み下さるやうに故人の意志に従って頂きたいといふことである。
 宮澤さんは法華経に安住し、こゝに立ち場を求めて只管に信仰に励んだのは、たしか高等農林を卒業される前後からではなかったらうか、一体宮澤さんのお内は宗教味にみちた家庭である、だから幼少の頃から明敏の才を持して居られる宮澤さんは、既に五歳の頃お父さんの朝夕の勤行聞き知って正信げなども、とうとうとそらんじて家人を驚かしてゐたさうである、私が十八九歳の頃、無暗と生きてゐることが不可思議にみえ 果ては憂鬱になり、どうかしてこれを解決したいと思って、盛岡辺りをうろついて居たことがあった その時ふと宮澤さんに会ったら
 そんなら報恩寺へ行きませう、あそこの和尚はさう嘘は言はない筈です
といって私を励ましてくれるのであの無類と足の早い宮澤さんの後から、こそこそとついて行ったことはまざまざと記憶に新しい。
 さういふ宮澤さんはその頃から真剣な態度で無上の道を求めて居られたと思ふ。それが国柱会の田中智学氏の門下となられたことによって、信仰は決定したのである 
その頃の宮澤さんの篤学振りは実に驚くにたへたものがあった。古い小机の前に終日、本を読んで居られる宮澤さんは私達の目には余りに尊くみえた。お内では前に質屋をして居られたが、その薄暗い所に宮澤さんを発見するとは私のひとつの歓喜でさへあった。宮澤さんはその時代に幾多の学問をがっちり自己のものになされたものとみえる。
 この頃迄、即ち農林を終へてお内に帰られ、地質の調査に或は学問に専念された頃は宮澤さんとしての第一期の頃とも云ひ得やう。
 やがて宮澤さんは無断で家を出られることになった。といふのは真宗の家に生れた宮澤さんは当然父母兄弟を改宗せしめねばならぬ立場になったのである。日蓮上人の遺文、秋元御書に
 悲しい哉、我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ、設ひ謗身は脱ると言ふとも、謗家謗国の失如何せん。謗家の失を脱れんと思はば父母兄弟に此事を語り申せ、或は悪まるゝ歟、或ひは信ぜさせまゐらする歟……
とある如く、まづ肉親を救はねばならぬ。宮澤さんのその頃の苦悩はみる目もむごいほどであった 世間で、お父さんと宮澤さんが折り合はないなどと、言ふ者もあるが、その根抵には実にかういふ原因を蔵してゐるのである。単なる感情上の行違ひなどではないのでそれもこれも同一視する人はあるなら、私はさういふ人には何も云ふまいと思ふ。どちらも頑強に自らの信念を発露したので、このことだけは、さう簡単に妥協のできない、人生最大の問題だからである。
 上京した宮澤さんは物質的にもかなりの苦労をなめられた。田中先生の国柱会へも行って働いたし あらゆる労苦をいとはず働かれた 又その頃から童話や詩を作られて宗教はどうしても芸術の力を借りてやらねばならぬと力説された。例へば理論は薪で、その炎は芸術である、といふ風なことも多くいはれた。随ってどの作品も多分に宗教味を帯びてゐることは観賞する際に決して忘れてならないことである。
 宮澤さんの信仰は根抵は大磐石であるにしろ、常に上べは流動されてゐる如く見えた。信仰に生きてゐたとはいへ、常に教義の上や社会上の問題等にふれては種々の疑惑が起り宮澤さんの心を暗くしたりした。はたからみてゐると基礎はゆるぎだしたのかとさへ思はれた。然しいざとなっては寸毫のゆるぎもなかった。明瞭に実に明瞭に、それはあの遺言は説明してゐる。要するに宮澤さんの信仰は動脈硬化的信仰ではなかったのである。
 東京で病を得、帰郷されてからは余りに折伏的行動はとられなかった成べく周囲の人達に随順された。そして
誰からも慈父の如く懐かしまれ、敬まはれた。その徳行のいちいちを書いたら全く書き切れるものでない。
 例へば農家の人達を相手の肥料設計などはその尤たるものであらう。現世で一番損な立場である農家に肩を持って、その利益を計ってくれてゐた。肥料設計にしろ、料金はとるでなし、その人たちのためとあれば夜半でも何時でも出かける。さういふ菩薩の行為は人々の心に永く忘れられずに居ると思ふ

 
これからは宮澤さんを種々の方面から研究する人も出やうと思ふが、なにをどうなされるにしろ、まづ宮澤さんの心血をそゝいだ法華経によって、佛意に触れることが、宮澤さんを理解し得る最も近い道ではなからうかと思ふのである。
  (写真は花巻農学校時代の宮澤賢治さん)

  (少年の詩は大方性欲の変形であること、そしてその頃が最も人生の大事な時であることを、私は輝き亘る天の下で宮澤さんから聴いた――) 森惣一
  2
 ――春になって、蛙は冬眠から覚め、蛙の居る穴へ、ステッキをつき刺せば、穴から冷たい水晶いろの空気が出る――ほの暖かい春の空気へ――
 私はそのやうな詩を、その春の少し前に作ったことを、宮澤さんに話した。考へ考へながら歩いて居た宮澤さんは、
 ――
はあ、はあ、それは性欲ですよ。実にいい。はっきり表徴された、性欲ですな……
 と云った。そしてそれは、フロイド学派の精神分析の好材料になるやうな詩であることを、くわしく説明した。
後にハゞロツク・エリスの性学大系の原書を私に貸して読ませたのも、或はこの時の詩の話が原因してゐたのであらう。実際少年期の詩歌は、性欲の変形したものであり、私の詩の場合には殊にはっきり、それがあらはれてゐた。正しい性の知識を、私はハゞロツク・エリスの原書から学ぶことが出来たのは、宮澤さんに感謝してよい事の一つであった)
 蛙の居る穴も、ステッキも、水晶色の空気も、一切が残すところなく宮澤さんによって鋭く分析された。水銀いろの光が降り、明るく亘る禁欲の天の下で私は、性といふものゝどういふものであるかといふことを、宮澤さんの話によって正しく聖典のやうに刻みつけた。
卅八歳で死ぬまで童貞であり、いろんな女性の誘惑を、古への仏教の始祖がしりぞけたやうに、しりぞけた宮澤さんは、あゝなんといってよいであらうか
  ☆
 (五本の透明なさくらの木は
  青々とかげらふをあげる)
 わたくしは白い雑嚢をぶらさげて
 きままな林務官のやうに
 五月のきんいろの外光のなかで
 口笛を吹き歩調をふんでわるいだらうか
 たのしい太陽系の春だ
 みんなはしったりうたったり
 はねあがったりするがいい
 (春と修羅、小岩井農場九二頁)
 ――くらかけ山、岩手山よりも古い岩頸なやうです……
 そのくらかけ山も、走って行けば行けさうな岩手山下の高原、幼年期の山相を示す浅い谷間が何町置きかに、ゆるやかな放射状をなして並んで居た。高原を横切るためには、いちいちその谷間へ降りてそして又昇らなければならなかった。笹や種々のつる草、若い白樺やはんの木が、その谷間に生えて、うぐひすが数へたてられない程そちこちで鳴いて居た。ひとつの谷の中に入った時、ぎゃーぎゃーと鳴いて飛んだ鳥があった。
 ――ひもでありませんか、青い真田ひものやうなひも、鳥の声はひものやうに波打って空を流れるものではありませんか……
 私もさう思った、光が冷たい水の層のやうに気圏の底にみち、鳥の声は青い長いひもをなびかせたやうに、流れるのであった。あゝそのひもの多いこと。ぴらぴらとぴらぴらと、青いひもはそこら一面の空になびいては消え、なびいては消えていった。そこで
宮澤さんは突然愉快になり、蕩児高橋享一が踊り上がって宮澤さんの心象にうつって来た。蕩児は天女と遊び、再び地上の女と遊ばなかったといふ、私には飛躍し過ぎて解らない話であった
 いくつかの谷を越え、岩手山から降った安山岩の大きな塊を見て過ぎた。大きい松の木に、山葡萄がいっぱいにからみ、その木一本で大人が二三人で背負へない程、秋には山葡萄がなる……と宮澤さんが話した。
  ☆
 わたくしはさっきの柏や松の野原をよこぎるときから
 なにかあかるい高原風の情調をばらばらにするやうなひどいけしきが
 展かれるとはおもってゐた
 けれどもここは空気も深い淵になってゐて
 ごく強力な鬼人たちの棲かだ
 一ぴきの鳥さもみえない、
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 表面がかさかさ乾いてゐるので
 わたくしはまた麺麭ともかんがへ
 ちゃうどひるの食事をもたないことから
 ひじょうな饗応ともかんずるのだ
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 とにかくわたしは荷物をおろし
 灰いろの苔や靴やからだを埋め
 一つの赤い苹果をたべる
 うるうるした苹果に噛みつけば
 雪を越えて来たつめたい風はみねから吹き
 野原の白樺の歯は紅や金にせはしくゆれ
 北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
 (あれがぼくのしゃつだ
 青いリンネルの農民シャツだ)
  (春と修羅二九四頁、鎔岩流)
 とうとう私達は岩手山の麓の高原を横切り、鎔岩流にたどりついた。にえたつ湯のやうに、空気がぐらぐらゆれ、かげらうが立って向ふに見える七時雨山もそのために、伸びちゞみする程であった。セキレイが沢山、そのかげらうの中に尾をあげさげして鎔岩流止まったり、とんぼがへするやうに飛んだりしてゐた。水の一滴もない、凄い鎔岩流に、セキレイは何しに来て群てゐるのだらう。町裏などのドブ川に鳴いてゐるあのセキレイが――
 私達は盛岡駅前で買った切らない食パンちぎっては食べ始めた。何と簡素で、而も満みあふれた、食事であったらう。何もつけず副食物もなくパンは酵母の匂ひにみち、私は恐らく生涯あのパンよりうまいパンを食べることは出来ないであらう。
 ――卵を生んで、孵へしに来てゐるのでせうね、夜になっても鎔岩流が吸収した熱は、多分朝まで暖かさを保ってゐるのでせう……
 遠く見える北上山脈は山といふやうな重量感は少しもなく、青いあさ黄色のまんまくを張りめぐらしたやうにさへ見えた。青いリンネルの農民シャツが、実感となって目の前に見られた。私達は腹いっぱいにパンを食べると少し休んであたりを見廻した。国有林が瑞西か北欧風に展開してゐたし、人の住む北上山地は、ぼうっと、かすみの中に見分け難かった。鎔岩流を越えて向ふには、実際ひどい景色しかなかった。松林が散々に切り倒されて、荒々しい風景の上に太陽ももう、半ば酸性化した光を降らして、そこら一面には何も新鮮な目をひくやうな何ものもなかった。私達は下方の田や畑を見下ろしながら、たゞ無言で大更に出て更に好摩に向った。汽車に乗る前、待合室で、宮澤さんが一寸見えなくなった。どこに行ったかとしきりに探したら、向ふの方からニコゝゝと大きな夏みかんを三つ四つかゝへて大またにゆっくり歩いて来た。私達は待合室の中で、たっぷり時間があったので、夏みかんを一つづつ食べた。そしてまた汽車の中で一つづつ食べた さっぱりした気分で、またつかれも去り、私達は汽車の出入口に立ち、宮澤さんは、けふ心象スケッチした小さいノオトをしきりにめくって見て居た。春谷暁臥といふのが、この日に得たスケッチの一篇であった。
  (一九三三年十月三日)
(写真は花巻農学校時代、地質学の説明をする宮澤さん)

 谷暁臥 …(心象スケッチ)… 宮澤賢治遺稿

 (本文

 る日の『宮澤賢治』 (一九二四、八、二〇) 藤原草郎

突拍子のリズムで賢さんがやってくる
カーキ色の服をはづませてやってくる
午前の国道街は気を付けいだ
あの曲り角まで来た
雲の眼と風の風の変はり様で
どっちへ曲るかゴム靴に聞いて見ろ
草薮の娘から借りて来た帽子だ
野葡萄の香りがして来た
一体
あのユモレスクな足どり
おれの方を差してゐるではないか
それ用意だ
おれの受信局しっかりしろ
象の目つきをして戸口に迫って来た
三日月の扉からまつげが二三本出てゐる
地球の接線の方へと向いている前歯
唇でおひかくされるものか
アザラシに聞いて見るがいゝ

何だ挨拶などしてゐる
ほほ
頑丈な手だ
スケッチブックを振り廻してゐる あゝ
その廻転速度を少しゆるめてくれ
その放射量を減らして貰ひたい
おれはすでにでんぐりかへってゐる

八畳の部屋は賢さんで一ぱいだ
野良の風景であふれてゐる
よろしい聴かう
プレストだってヴィバアチェだって構はん
あゝ少し待った
とてもたまらない
さう引ッ張り廻されてはおれは分裂する

ぎらぎら光る草原を
プリズム色彩で歌はされる
松の葉の先端を通り抜け
雲の変化形を一々描き分け
銀河楽章のフィナーレだ
おれのセロはうなり通しに疲れ
賢さんのタクト棒だってへし折れてゐる
アメーバの感触と原生林の匂ひから
四次元五次元の世界へだ
とんでもない心象スケッチだ
賢さん行かう
べエトウベエンの足どりで
イギリス海岸を通って行かう
イーハトヴの農場へ
トマトの童話でも聴きに行かう

 己の詩人の便り四通

宮澤賢治氏のお逝去を心から哀悼申上げます
 北よりの便り悲しや秋の風
                  佐藤惣之助

謹啓
 宮澤賢治様おなくなりの由を御友人総代の方々のお知らせによって承知致し驚愕致しました。
 御生前文通等致さず従って御病気のことも存じませんでしたが
詩界稀々見る不思議な作家としてその御天才を古くから敬賞いたして居りました 御友人の方々は太陽を失ったと書いて居られます本当にさもあらんと存じます、伺へば御臨終近くまで執筆して居られた御様子せめて御遺稿のことで御手伝ひでも出来たらと考へて居ます、御家族様の御愁嘆を謹んで御察し申上げます
 只今は取急ぎ御哀悼の御挨拶だけ申上げますご友人の方々へも宜しく御伝へ願ひます
  昭和八年九月二十六日
          中西 悟堂
宮澤様
 御家族御一同

 拝啓先日訃報をいたゞいた時は実に驚きました、生前宮澤賢治さんとゆっくりお話をし合ふ機会も無く過ぎてゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとって云ひやうもなく残念な事でした、折あしく当方にて手離せない病人などありまして手紙さへさし上げられませんでしたが草野君が参上する事となって幾分安心いたしました。――中略――
昨夜は草野君が帰京直ちに来宅せられていろいろそちらのお話や賢治さんの事やら遺稿の事やらうかゞふ事が出来て少々慰められました――中略――
遺稿の事などいづれ又こちらの友人等からも申出ることがあるかと存じます 略
 八年九月二十九日
             高村光太郎
宮澤清六様

畏友
宮澤賢治氏の霊をさびしむ今われ病床に兄の永眠を識る心愁たり
空に散るものは秋 去りゆくものゝ寥しさに心鬱々として涙の文字を■らしめざるものあり矣
只管に兄の英霊に安らかなれと祈る
 九月二十七日
          段塚 青一

 宮澤賢治 母木 光

 秀れた、しかして偉大なる芸術家は、どうじにゐだいなる人間であった。一世紀に何人かのにんげん――十指にあまらないその人間 いまは喪き宮澤賢治。
 
己れのちからを世に呈示しようとしない、ことばを換て俗ないひ方をすれば、人らにしられなさすぎることの悲痛…。しかしまたこれはなんといふ痛快なことであらう。

 凡人の唯一の美の象徴のひとつは、涙である。かぎりないかなしみと底しれぬいかりのために、はじめわたくしは歯をくひ、涙ぼうだたるその凡人の模型であった。しかし時間のながれは知性といふものに窓をあたえる。死は、死とは、かたちのうへにすぎない。故人の不朽の仕事、無数さんぜんたる遺作をめのまへにするとき、不滅といふ怖ろしいことばを容易にならべるばかりか、死とはかたちのうへの変化にすぎないなどとまで、凡人らしく脱線してみたいのである。

 草野心平さんは、宮澤賢治氏をかいするにおいて、その数すくないひとのなかにあって尤も有数のひとりである。
 『
宮澤賢治の芸術派は世界の第一流の芸術の一つである。』
と草野はいふ。星座をかいするものは所詮星座である。大きいものを解するものはしたがって巨きい。昭和六年七月版の『詩神七一頁宮澤賢治論』のなかに前章のことばをよんだせつな、わたくしはあっぱれなり草野心平とさけんだ
 宮澤さんのデスマスク!あの
不犯の香品、聖高な霊気あれをあのまゝ表出できる作家は、故人に位する世界のアーチストのみだ。あの死貌こそは、まこと神のそれにるいするものであった。

 世には、さうとうに詩のうまいしじんがうようよと君臨してゐる。だが、かかれたる(或はつくられたる。)作品と人間とが(作者の人格、品性、態度、生活一般)いちじるしく背馳してゐて、まったくどうかと思ふような例を、わたくしどもはあまりに見せつけられてきた。それが宮澤さんにあっては、紙一枚の虚間、たゞ一頁の表裏もなく、あるがまゝに在った純潔なひとであった。氏にあっては、芸術すなはち生活であり人であった 敬するにあたひする、と信じるにあたひあまる人であった

 ろくにニシ、ヒガシも識らないで、無規律にあゝのこうのいふのは、あまりみよいものでないのみか、いゝことだとは決していえない。だからわたくしはこのへんでペンを投うって、だまって故人の作を示すにかぎる。それが第一等だとおもふ。でも、こんなことだけは言えるのではないか。
 
宮澤賢治のまへに宮澤賢治なく宮澤賢治のあとに宮澤賢治なし!かうおもひますがどうでせうね。
 こんなひとをお子さんにもちながら、豊沢町のおうちのかたがたはなあんともおっしゃらない。お父さんもお母さんもえらいことえらいこと。ほんとにたまげてしまふ。
 宮澤さんは三十八でなくなった 
たゞの人が、百三十八になるまでかゝっても成せないにちがひない仕事をのこされてなにものも虐げず傷つけずに。そして氏の全生は、お紅茶じかんすらない死闘であった
 
天才とは、宮澤賢治氏の名であったいや人とは、宮澤賢治氏の名であった。でも宮澤さんは、そんなよびかたをされるのを手をふって真っ平まっぴらをした。ことしの八月十九日わたくしにとって一番おあひのおしまひの夜、『心象スケッチ屋さん』とおよびしたら、ずいぶんよろこんでゐらした。わたくしの涙腺のとこで、あのじつにうれしいありがたいときの波やうのものがどきんどきんをした。
『らいねんの夏は、サッポロに俳句旅行をしようではありませんか。あなたには上の句をわたくしは下をやります。』
 あなたの
三十八歳の全生涯!いな百三十八歳それのあひだで、ジョオクでないことで、うそのような違約のようなこんなことは最初にしてさいごだったのでせう。お約束おやくそくはたされなかったお約束。わたしのわたしの花巻の心象スケッチ屋さんよ。
 
諸もろの美もろもろの真、もろもろの愛もろもろの徳もろもろの善!故宮澤賢治。
 万歳!

 澤さんの事 梅野健三

 九月廿一日午後一時三十分――人間としての宮澤さんが、三十八歳の短命で地上と永別を告げた。幾度か再起不能を伝へられたが、最近は非常に経過よく、病床を離れて自宅付近の逍遥にまで健康を恢復し得たのであった。岩手の秋愈愈深く氏の愛する山河、森林又詩情を盛り冴え渡るとき、日本詩壇の輝く特異の存在である宮澤さんは、静かに天上の雲となったのだ。
      ◇        ◇
 想へば人間としての宮澤さんの生涯は、寂しい生涯であった。
この濁世を泳ぎ切るために、身に何らの粉飾をなさない童子の如き天心の宮澤さんは、どれ程せわしく心をつかったか知れなかったであらう。そして仏法の奥地に身を寄せ、この世の一切の欲念を去り、静かに高遠の詩境に坐して、人間としての美しい生活を歩み進んで来たのだ
 七月廿五日よる、病床にある宮澤さんは、令弟宮澤清六氏を使して、故石川善助氏の遺稿集を恵与されたのであったが、その時石川氏遺稿集書かれた『梅野健三様 宮澤賢治』と云ふ宮澤さん一流の筆跡が、最後の空しい想ひ出となった。
 ――訪ねよう、会って顔だけでもみて来よう――
 と常々思ひ乍ら、遂現在まで会へずに了ひ、突然の悲報に遭って遺骸に接し、幾久しい御無沙汰のお詫をせねばならなかったとは、自分乍ら身の頼りなさが泌々思はれて来るのだ。
      ◇        ◇
 一ケ月程前、友人某君が宮澤さんと会った際、私の作品の事なども、いろいろ批判され『小説を書くように伝へてほしい』と語ったと云ってゐたが、私は病床にある宮澤さんの輝く熱情の瞳を思ひ泛べて、感謝の心に胸の迫る想ひだった。この七、八年、まるで何にか迷惑ばかりかけ続けた私の非礼を咎めもせず、尚最後まで私を激励してくれた恩人宮澤賢治氏を私は終生忘れないであらう。
 人間の環境が、いついかなる時いかに変転するか図り知り得べくもない。
 古色蒼然たる庭石の如き私の存在も、たとへば、その環境が、いかに変化し終るであらうとも衆人の中から、この蒼然たる庭石を愛してくれる少数の人達の暖かい友情を、私は生涯忘却せぬであらう。
      ◇        ◇
 宮澤さんは、最後まで芸術を守り続けた。二十日遺稿等に就て種々令弟宮澤清六氏に話し託し了へた宮澤さんは、心安らかに仏法の世界に身を入れ、静かに読書に時を過ごして行った。
 ――今晩の電燈は暗いようだな――
 と眼を上げて、電燈の光を仰ぐ様子に、家人が五十燭の電燈を近々と寄せると
 ――二十燭ぐらひの光だ…――
 と云って暫らく瞼を閉じて黙然としてゐたが、又静かに弱められて来る視力に映つる淡い光を頼りに、読書の頁を趁ひつゞけた。
 
彗星のごとく日本詩壇に現れ出た宮澤賢治氏が、芸術家としての尊い精進は、病床にあって一時も休むことなく死に望んで尚もその熱情が高められて行ったのだ。
 ――十年後の宮澤賢治が、どんな姿をわれわれに見せるであらうか?――
 宮ざわさんの
特異の作品を凝視してゐる日本の詩壇人は、怖ろしい緊張のうちに、宮ざわさんの今後を打ち見守ってゐたのだが、その輝かしい期待も成果も人は空しく巨人の追憶となったのか……。
  (十月三日)

 屋根裏
 春谷暁臥は天才人に寄せられたものです 私の固有名詞などが出てゐるので、あまり出したくはありませんでしたが、追憶記の都合で出しました(M・S)

岩手日報

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