それは、雲一つなく晴れた午後の出来事。

 透き通るような青い空が三千メートル級の山の向こうまで広がっている。正門から続くユリノキ並木も、快晴の空を背景に金色に変わった葉を輝かせていた。秋めいた風が頬に心地よい。
 学園祭が近いこの時期は、キャンパスの中がいつもより忙しそうで楽しそうになる。いつの間にやら見覚えの無い立て看板がかかり、サークル棟からは一日中ドラムやギターの音が零れ続ける。これといってサークルに入っていない俺はうわっついた雰囲気の中で、一人だけ別世界から迷い込んだような気分になる。高揚した騒ぎに乗っかってしまえばイイのだろうが、それはそれで俺の沽券だとか矜持だとかポリシーだとか……とにかく性に合わないのだ。
 昼休みに生協へ行ってみても、通常以上の人数が広場のベンチを占拠していて、食後の一服が出来る状態ではない。お前等、どうせ学校来るなら毎日来いよ。
 聞こえない程度に舌打ちをして、生協前を通り過ぎる。背中で爆発的な女の笑い声がした。おいおい、肩から下げてるヴィトンのバッグが泣くぜ、そんな知性の足りなさそうな笑い方じゃ。

 なるべく一番静かそうな場所を探して、俺は研究棟の裏に辿りついた。流石にここは学園祭熱の騒がしさは無くて、漸くポケットからウィンストンの赤い箱を取り出した。非常階段に腰掛けると、どこからか仄かな薬品の匂いがする風が漂った。その風に乗って16ビートのリズムだけが耳に届いた。研究棟の方が生協よりもサークル棟に近いから、向こうでは聞こえなかった軽音のドラムが聞こえるのだ。静かな一服を探していたわけだが、かすかに聞こえてきた低音は不快ではなく、むしろ丁度よいBGMになった。
 煙を深く肺に吸収させる。吐き出した殆ど色の無い煙が溜息のようだった。
 空には雲の欠片も無く、秋風にたなびいていくのは俺の指先から立ち昇る副流煙のみ。
「あー、イイ天気だなぁ」
 思わずそんな台詞が口から漏れた。

「イイ天気だねぇ」

 校舎の影から突然言葉が返された。ひょい、と角から日に透ける髪の毛がのぞいた。
「や、こんにちは」
「ああ、こんちわ」
 声の主は同級生の女子だった。予備校で知り合って、偶然同じ大学同じ学部に合格した、“同級生の中でも”一番長い付き合いのある奴だ。
「何、なんでこんな所にいるの?」
「あ? 食後の一服だよ」
「いつも生協前にいるじゃん」
「つーか、今日めちゃくちゃ込んでんだよ。あんな所で吸う気になれねーって」
 また風がそよいで、煙と、彼女のレイヤーをふんだんに入れた髪を揺らした。日光を受けて白い程に映る髪。
「髪また脱色した?」
「あ、うん。学園祭のライブも近いしね。ちょっときつめにブリーチしといた」
 なるほど。パンク・ロックのボーカルには気合いが必要らしい。でも俺の目と耳から言わせてもらえば、漂白しても柔らかさが無くならない髪質と、ピアノみたいな透明な声質はロック向きじゃないと思うがね。こいつの歌を聞いたことがないから声は別としても、少なくとも気合いが入ったはず髪は、冬芝の色といえるくらいに温かみがあった。
「そういえば、そっちこそなんでこんな所を?練習?」
 バンドの練習でもあるのだろうか。ここを抜けていくとサークル棟までの近道になるかもしれない。ところが相変わらず彼女の答えは意表を突いていた。

「天気雨を見に」

「は? 天気雨?」
「そう。ね、一緒に見に行こうよ」
「見に行こうって……どこで降るんだよ」
「グラウンドの辺り」
「マジで? ……まっさか、そんなの分かるわけねーだろ。気象庁でも予測できないらしいぜ、天気雨なんて」
「うんうん。だから見れたらラッキーでしょ? さあ、一緒にラッキーを浴びに行こう!」
「イイよ、俺は。別に」
「もー、相変わらず覇気が無いなぁ。ちょっと余分な行動するくらいの甲斐性持とうよ、ほら!」
 無理矢理手首を引っ掴まれ、立たされた。俺の平和な一服の時間よ、さらば。こいつが現れた瞬間から突拍子もない事を予想しておくべきだった。

「さて、ここら辺かな」
 空模様と太陽の位置を確かめ、彼女はグラウンドの土手に座りこんだ。俺はといえば、その傍らの太い木に凭れかかり、2本目のウィンストンに火を付けた。
「オイ、スカート汚れるだろ」
「気にしない、気にしない」
 いや、俺が気にするんじゃなくてお前が気にするべきだろ。原色のマドラスチェックに染められたスカートの下で、針葉がちりちりと折れる音がした。
 木の蔭からグラウンドを眺めると随分と眩しくて、高く突き抜けるような空には雨を降らせそうな雲は見当たらない。ささやかな風もやんだようで、さっきまで聞こえていたドラムの響きが流れてこない。
「なー、降るまで待ってるつもりか?」
「ゆっくり待とうよ。静かな所で一服できるでしょ?」
 ……それはその通りだけど。
「いいじゃん。学祭の準備するわけでもなし、暇でしょ。どうせ今年も来る気ないんだろうから」
「暇ねぇ……ま、確かに3日間寝て過ごすつもりだけど……って、それはあと2週間後の話だろうが。今日は普通の日。あ! 3コマ目、環境水文学! お前も取ってんじゃん」
「大丈夫、すぐだから」
 グラウンドを見つめたまま、確信に満ちた声で彼女は答えた。ふいにドラムのビートが空気を揺らした。幽かな音は次の瞬間に掻き消えた。

 風が、背中の針葉樹を振るわせた。枝のざわめきに俺達は包まれた。
 ―― それが天気雨の降る合図だった ――。


 雨が降った。真っ青な空から、太陽を受けて輝く金色の雨が注いだ。


「わあい! ほら、降った!」
「……なる、ほど」
 さらさら、音をたてて金色の雨は降りつぐ。雨を降らせているのは、俺が凭れかかっている落葉松だった。風で散った針葉が、光を浴びて舞い落ちる。その姿は、まさしく輝く天気雨だった。
 ほとんど吸っていない煙草の灰が落ちるまで、俺は呆然と松葉の雨を見つめていた。

 どれくらいそうやって落葉を眺めていただろうか。さて、授業行こっか、と呟いて彼女は腰を上げた。スカートに付いた枯葉の針を払う仕草で、陽に光る細い髪のひとすじが揺れて、さらさら、雨と同じ音をたてる。
「ねぇ、たまにはちょっと余分な行動するのも面白くない?」
 澄んだピアノの声で尋ねられた。
 そうだな。たまには。
「……なぁ。お前のバンド、いつ演んの」
 金の雨の中、先に歩き始めた彼女の背中にそんな言葉を投げかけた。

 それは、天気雨の降る素敵な午後の出来事。



 




777HITありがとうございます!いやはやなんとも遅くなってしまいました(滝汗)
ラッキーセヴン、なので何かラッキーな物を書こう、どうせなら秋らしく…
と思ってはや一年。秋に合わせてお贈りしたかったのでこんなにたってしまいました。
許して下さい、貰ってやってください!

キリ番ゲッターの田嶋屋様に捧ぐ!

田嶋屋様のHPへ→GO!




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