「麦秋、という季語を聞いたことがないかい?」
「麦の秋、季節は初夏。つまり麦というのは初夏に黄熟期を迎えるわけだ。稲が秋に黄色になるのと同じことだよね。登熟……すなわち子実にデンプン質が蓄えられるようになり、それに伴い今まで緑だった植物体が枯れ上がっていくわけ。コメ粒だとかムギ粒っていうのは種だからね、子孫を残すためにそれまで葉っぱにも蓄えられていた栄養を出きるだけ種に注ぎ込むんだ。これを再転流という――ま、余談だけど。
ちょっと待って、質問は後! 麦の話に戻るね。日本じゃ麦よりも稲が多く生産されているっていう事ぐらいは知ってるよね。日本でも勿論麦は育てられているけれど、小麦の本場ヨーロッパに比べると各段に生産量が落ちるんだ。どちらも同じ秋播き品種、肥料や機械技術が劣っているわけでもない。何故、日本はヨーロッパよりも小麦の生産に向いていないのだろうか?
そこでさっきの“麦秋”という言葉が重要になってくる。
日本の麦の生産性が低くなる要因は気候にあるんだ。麦秋が初夏の季語ってことからも分かるように、日本ではちょうど麦が実る時期、即ち黄熟期が梅雨の季節に重なるんだ。子実の登熟時に湿度が高かったり多雨だったりすると、実りが悪くなる。一方ヨーロッパはこの時期に天気が良く、登熟にはうってつけの気候なんだ。よって、ヨーロッパの方が日本よりも麦の生産に向いていると言えるわけだ。
だから待って。ここからが本論だから。
穀物の生産性の違いは文化的な面からも窺い知れることができるんだよ。
日本で“実りの季節”というと稲が実る秋だ。しかしヨーロッパでは小麦の生産がメインだから、六月頃が実りの季節になる。六月は豊饒、家庭、結婚の女神であるヘラが司る月。……僕が思うにね、ヘラが六月の女神になったのは六月が実りの月だったせいじゃないかな。実りの季節だから、きっと実りの女神が守っているんだろう、なーんて古代ギリシャ・ローマの人は考えたんだろうね。
日本だって同じことが言えるじゃないか。
十月は神無月だよね。日本中の神様が出雲の国に集まって年度末会議を開く、だから神がいない月と呼ぶ。一年のサイクルを握っていたのは食料の生産だから、稲が実って収穫が終わった旧暦十月に年度末会議が開かれるんだよ、きっと。
同じ文化面でジューン・ブライドという言葉は何から来てるか知ってる?
あー、いい、いい。言わなくても。答えはね、さっきの“ヘラの月”っていうのから来てるんだよ。結婚の女神であるヘラの守護月に結婚すれば幸せになれる、つまり縁起かつぎなわけだ。
総合的に見てみるとね、結婚の月→ヘラの月→実りの月→小麦の黄熟期で天気が良い……という図式が成り立つ。ポイントとしては好天気って部分だね。結婚式を上げやすい天気から六月が結婚の月になったとも考えられる。日本の小麦生産がヨーロッパより低いのはこの時期に天気が悪いせいだとさっき言ったね? つまり日本における六月は結婚式向きの季節じゃないわけだ。
だからさ、ジューン・ブライダルへのこだわりを考え直してみたらどうだろう」
彼が言いたかったのは結局この一言なのだ。
それを知った彼女は、ようやく大きな溜息と共にさえぎられ続けた声を発した。
「……私、あなたとの結婚を考え直そうと思っているわ」
|