ぬくもりヨリモ先ニ、世界ハ光ニ満タサレタ。
――1――
第一印象は最悪だった。何しろあいつは、壁から出てきたのだから。
春の花が終わりかけの、明るい日曜のことだった。窓から見える空は、一面に絹雲がかかって真っ白で、晴れなのか曇りなのかわからない漠とした空気を部屋の中にまで運んできていた。
机の上に広げた参考書から目を上げても、全く紙のような景色は気分転換になってはくれない。さっきからほとんど動いていないシャープペンシルを本の上に落とすと、問題文の坂を滑り落ちて、傍らの眼鏡にぶつかって止まった。プラスチック同士がたてた乾燥した音も、耳のどこか端の方で聞いていた……やる気のない昼下がりだ。
椅子の背にもたれかかってがくんと後ろに首を落とす。天井すらも真っ白で、目眩がしそうだ。手元の参考書も、目の前の空も、仰向いた先に見えた天井すらも真っ白。頭まで白く霞んでいきそうで、いっそ気持ちがイイというものだ。僕はそのまま目を閉じた。
ふいに甘い匂いがした。
どのくらい目をつぶっていたかは分からないが、微かな匂いに刺激され、真っ白い意識を叩き起こした。椅子に座りなおし、外していた眼鏡に手を伸ばす。まさかあの人がこの部屋まで上がってきたのだろうか。レンズ越しに見まわした部屋はさっきと変わらず自分ひとりだけの空間だった。
「そういえば……」
留守だったっけ。第一鍵がかかっているから中まで入って来れるわけはないんだった。眼鏡を外し、詰めていた息をゆっくり吐いて、もう一度空気を吸いこんでみた。
甘い香りはもう消えている。
眼を閉じていたわずかな時間に夢でも見たのだろうか。夢で嗅覚が働くなんて、僕も随分と器用なことが出来るようになったもんだ。
時計は3時26分を表示している。ということは脱力していたのはせいぜい1、2分程度だ。まだまだ退屈な午後は長い。
だからこそ、気まぐれというヤツが降ってきてしまったんだ。一番上のひきだしにある、ここ半年ほど触りもしていなかった鍵に手が伸びた。古風な形の鈍い真鍮色の鍵は、薄くホコリが積もってしまっているピアノを開くためのものだ。受験勉強もしないでピアノを鳴らしているなんて、と父さんは良い顔をしない。しかし今は家の中に僕ひとりしかいないのだ。一曲くらいいいだろう、気分転換気分転換。
部屋の角にあるアップライトのピアノに鍵を差し込む。金属の外れる音が、澱んでいた空気を振るわせた。軋みひとつあげず、半年ぶりのピアノはあっさりと口をあけ、黒と白の歯を見せてくれた。人差し指を軽く置くと柔らかくレの音が響いた。室内の澱んだ空気を揺らした音は、ゆっくりと僕の体の芯まで染み込んでいくようだ。椅子を引いて、背筋を伸ばして座ると、不思議な高揚感が湧いてきた。……懐かしい友達との対面。そう、正にそんな感じだ。実際このピアノとは半年ぶりの会話なのだ。僕はできる限り優しく、最初の音を出した。
曲は『トロイメライ』。穏やかで明るいメロディーが気怠さを溶かしてくれる気がしたからだ。物心つく前からずっと聴いていた曲に、体が勝手についていってくれた。ピアノを習い始めた頃は、なんとかこの曲を弾けるようになろうとして、躍起になってバイエルを進めていったっけ。ペダルに足が届かなくて、イライラして牛乳をがぶ飲みしたのはそれから暫く経ってからだったな。
『トロイメライ』は追憶を誘う曲だ。
昔の記憶はセピア色、なんて表現されるけど、僕には昔の方が鮮明でフルカラーだ。無味乾燥な現在。色褪せた日常。真っ白な日曜の午後。
また甘い香りが鼻をついた。
今度は気のせいじゃない。夢でも間違いでもない。確かに、果物みたいな甘い匂いがしたのだ。
振り返って見ても、窓もドアもきっちり閉まっている。……にも関わらず、匂いはどこからか流れてきて、しかもどんどん濃くなっていくのだ。
息を止めても、体に甘さが纏わりついてくる。
薄気味悪くなって鍵盤に手を戻した瞬間、ピアノ横の壁の異変を見てしまった。
髪の毛の塊が、壁から這い出てきている。
黒くうねりながら、壁を通り抜けて、それは部屋の中に侵入してきた。
「ぁっ……か……」
喉の奥がひりついて、声が出ない。
髪の毛がずるずると白壁から染み出してくる。
僕は椅子から転げ落ち、腰をしたたかに打った。が、痛みなどは感じない。
脳が恐怖で飽和しているのだ。
とうとうそれは頭の輪郭を見せ、半透明の長いうなじと肩を晒した。
はん、とうめい?
そらしたくても釘付けになった目はそれを凝視してしまう。
髪の毛と肌の向こう側が見えるのだ。本棚に並んでいる、背表紙の文字まで読み取れる。
つまり……これは……。
僕は尻餅をついた形のままで後ずさった。
腰が立たない。息が浅い。
甘い匂いは、今や窒息しそうなほど部屋に充満している。
つまり、これは現実にいるはず無いものなのだ。
背中にクッションが当たった。ベットに遮られ、これ以上あれと距離を取れない。
つまり、これは。
――― 幽霊。
その単語が頭の中を走った途端、俯いていた髪の毛が持ち上がり、白い面があらわれた。
そいつの吊り上った目が僕を真っ直ぐ捉え、毒々しく赤い唇がニタリ、と笑った。
体中の血が下がる音を聞くのを最後に、僕は意識を手放した。